大学での教職免許取得課程の「教育原論」の授業において、「何のために勉強するのか」をテーマに小論文を書いた(書かされた)ことがある。
この時既に私は30歳代前半。しばらくの職業経験を経た後、自らの意思で学業を修めるために再び入学した大学の授業でのことである。
この小論文において、私は当時の持論を展開した。
「勉強すること、すなわち科学の探究とは“何かのため”にしなければいけないことなのか。私は純粋に学問を志し、再びこの年齢になって若者達といっしょに今、ここで学業に取り組んでいる。それはとても楽しく有意義なことである。勉強とは決して何かのためにすることではなく、人間が生きていくことそのものであると私は考える。」
この私の小論文は「教育原論」担当教官に高く評価され、受講学生全員にコピーして配布された。
さて話が変わるが、昨日(4月25日)の朝日新聞夕刊の連続コラム「悩みのレッスン」において、高校生の「勉強は役立つの」との相談に対し、私がファンである創作家の明川哲也氏が回答していた。
まず、高校生の相談内容を要約しよう。
私は進学校に通う受験生であるが、私には舞台役者になる夢がある。この夢が出来てから、勉強をする意味を見失い苦しんでいる。大学には行きたいけれど、それは単に4年間の猶予が欲しいだけだ。自分では勉強も芸の肥やしと言い聞かせるのだが本当のところはわからない。勉強って根性をつけること以外に将来何かに役立つのか?
以下は、これに対する明川氏の回答の要約である。
役者はスパークだ。心に火花がなければ何も伝わらない。あなたが役者の人生を選ぼうとすることは、むき出しの生をつかむこと、すなわち虚無との対決だ。今、意味がないと思える勉強にあなたの生は戸惑い、忍び寄る虚無に恐怖を感じている。それは理解できる。 ほぼすべての若者の対決は「生 vs 虚無」の構図にある。まず虚しさを知ることで、これに一度は敗北することが戦いの始まりだ。まさにそれが自主的に生き始めたあなたのような人に与えられた試練となる。 虚しさはあなたに選択と創作を強要する。スパークできる教科を思い切り楽しんで勉強すればいい。意味が感じられない教科は教科書をとっておき、いつか浸れば必ず花火を見せてくれる。 そしてその時、あらゆる学問は人類が虚無に引きずり込まれないために打ち上げた花火だったと気付く。人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさだったのだと。これを知った役者の花火はでかい。
私は明川哲也氏のファンであるため、氏に関しては当ブログのバックナンバーの記事で何度か取り上げている。
その中で既に述べているのだが、なぜ私が明川氏のファンであるかというと、僭越ながら私の思考回路や価値観が氏と似ているように感じることがひとつの理由である。(私の単なる勘違いでしたら失礼をお詫び申し上げます。)
今回のこの回答も我が意を得たりの思いなのである。まさに、明川氏の述べておられる通りである。
勉強の意義を見出せないでいる若者をつかまえて、ただ「勉強しなさい」と連呼するのは無意味である。これは浅はかな大人がよくやる失敗である。しかも、この相談者の高校生は既に自分の夢が描けるほど生きる事に前向きであり、自主性を身につけ始めた上で、勉強の意義について悩んでいる。今の混沌とした、若者が目標の定めにくいこんな時代に、それだけでもすばらしいことであると私も考える。
そんな若者にまずは「虚無」を認識させ、それに一度は敗北する事がスタートであることをアドバイスする明川氏はやはりすばらしい。
学問とは人類が「虚無」に引きずり込まれないために打ち上げた花火であり、人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさである。
そんな明川氏の考えに同感する私は、今後も学ぶ楽しさを満喫しながら人生を送りたいと考える。
この時既に私は30歳代前半。しばらくの職業経験を経た後、自らの意思で学業を修めるために再び入学した大学の授業でのことである。
この小論文において、私は当時の持論を展開した。
「勉強すること、すなわち科学の探究とは“何かのため”にしなければいけないことなのか。私は純粋に学問を志し、再びこの年齢になって若者達といっしょに今、ここで学業に取り組んでいる。それはとても楽しく有意義なことである。勉強とは決して何かのためにすることではなく、人間が生きていくことそのものであると私は考える。」
この私の小論文は「教育原論」担当教官に高く評価され、受講学生全員にコピーして配布された。
さて話が変わるが、昨日(4月25日)の朝日新聞夕刊の連続コラム「悩みのレッスン」において、高校生の「勉強は役立つの」との相談に対し、私がファンである創作家の明川哲也氏が回答していた。
まず、高校生の相談内容を要約しよう。
私は進学校に通う受験生であるが、私には舞台役者になる夢がある。この夢が出来てから、勉強をする意味を見失い苦しんでいる。大学には行きたいけれど、それは単に4年間の猶予が欲しいだけだ。自分では勉強も芸の肥やしと言い聞かせるのだが本当のところはわからない。勉強って根性をつけること以外に将来何かに役立つのか?
以下は、これに対する明川氏の回答の要約である。
役者はスパークだ。心に火花がなければ何も伝わらない。あなたが役者の人生を選ぼうとすることは、むき出しの生をつかむこと、すなわち虚無との対決だ。今、意味がないと思える勉強にあなたの生は戸惑い、忍び寄る虚無に恐怖を感じている。それは理解できる。 ほぼすべての若者の対決は「生 vs 虚無」の構図にある。まず虚しさを知ることで、これに一度は敗北することが戦いの始まりだ。まさにそれが自主的に生き始めたあなたのような人に与えられた試練となる。 虚しさはあなたに選択と創作を強要する。スパークできる教科を思い切り楽しんで勉強すればいい。意味が感じられない教科は教科書をとっておき、いつか浸れば必ず花火を見せてくれる。 そしてその時、あらゆる学問は人類が虚無に引きずり込まれないために打ち上げた花火だったと気付く。人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさだったのだと。これを知った役者の花火はでかい。
私は明川哲也氏のファンであるため、氏に関しては当ブログのバックナンバーの記事で何度か取り上げている。
その中で既に述べているのだが、なぜ私が明川氏のファンであるかというと、僭越ながら私の思考回路や価値観が氏と似ているように感じることがひとつの理由である。(私の単なる勘違いでしたら失礼をお詫び申し上げます。)
今回のこの回答も我が意を得たりの思いなのである。まさに、明川氏の述べておられる通りである。
勉強の意義を見出せないでいる若者をつかまえて、ただ「勉強しなさい」と連呼するのは無意味である。これは浅はかな大人がよくやる失敗である。しかも、この相談者の高校生は既に自分の夢が描けるほど生きる事に前向きであり、自主性を身につけ始めた上で、勉強の意義について悩んでいる。今の混沌とした、若者が目標の定めにくいこんな時代に、それだけでもすばらしいことであると私も考える。
そんな若者にまずは「虚無」を認識させ、それに一度は敗北する事がスタートであることをアドバイスする明川氏はやはりすばらしい。
学問とは人類が「虚無」に引きずり込まれないために打ち上げた花火であり、人生で最も味わい深いのは学ぶ楽しさである。
そんな明川氏の考えに同感する私は、今後も学ぶ楽しさを満喫しながら人生を送りたいと考える。
過去の栄光を引っ張り出してしまって、何だかみっともないですね。
おそらく、当時の若者達にとっては意表を突く内容だったのではないかと思います。というのも、当時は行動に何かの理由付けが必要な時代であったように思うからです。それで、教官が取り上げて下さったのでしょう。
現在は、若者達の心もよく言えば開放されていますので、皆さん、自由な発想で物事に取り組んでいらっしゃることと思います。
明川哲也氏のことを私は存じ上げませんが、氏と原さんは思考回路と価値観が同一であるが故、共感するの
だと思います。
学問とは人類が「虚無」に引きずリ込まれないために打ち上げた花火である。これ、妙な説得力を持って迫ってきますね。
何のために勉強するのか?夫々の答えがあって当然でしょうし、元来、人間は知りたい・学びたいと言う根源的な欲求を持った生命体だと思っています。
抽象的ですが、私の場合は「自己実現の欲求を満たすため」と答えることにしています。勉強はしませんが・・・。
今日、私は朝からある団体の活動に参加していました。そこに1人の青年が加わりました。彼は、今年大学院に入ったばかりです。工学部卒ですが、今までの専攻分野とやや異なるものの、この団体で学び、学んだことを参考にして修士論文を書きたいと言っていました。幸せだと思います。学ぶことに慶びを覚え、学問の目的を明確にしている若者がいることは事実です。彼のような青年と話していると清々しい気持ちになります。
それにもかかわらず、そんな欲求が表面化しないで悩む若者が多いように思います。
そんな中、本ブログで綴った役者を目指す高校生や、ガイアさんが昨日出会われた修士取得を目指している若者は、まだ若年にもかかわらず夢を描けてすばらしいと思います。
それでも若さとは過酷なもので、いえ、過酷だからこそまたまた虚無との遭遇が待ち受けているようにも思います。
ところが、虚無との遭遇とは一見過酷そうに見えて、実はさらなる自己の追求、発展のためには、むしろ虚無と出会える境遇や能力のある人の方が豊かな人生を送れるのではないかと私は確信するのです…。
確かに、夢を語ってくれる若者は指導する立場としては楽ですが、私など返って危険性を感じます。
むしろ、若者とは思い悩んでいる方が自然体なのではないかと、自分の経験からも思います。