時候的には少しずれたが、何十年も経過した今なお私の脳裏に浮かぶ忘れえぬ情景がある。
それは、今からウン十年前の3月下旬のある日、新卒で就職するために田舎から東京へ上京した日の情景である。
東京へは父が軽トラに荷物を積んで、私の田舎から海路フェリーで東京まで送ってくれる計画を立てていた。(私の父は造園の趣味があったため軽トラを所有していて、それを私の引越しに利用することにしたのだ。)
出発の日の前日からあいにく春の大雨で、荷物の積み込みに難儀した。そして旅立ちの朝となり、まだ降り続く春の雨の中いよいよ出発の時間となった。
さっきまでお弁当を持たせてくれたり何だかだと世話を焼いてくれていた、今回は留守番役の母の姿が見えない。
もう出発しなければフェリーの時間もある。どうしたんだろう、娘の旅立ちという人生におけるビッグイベントの大事な時に母は見送りもせず何をしているのだろう、と不服に思いつつ車に乗り込んだ。
やっと母が玄関から少し顔を出した。その顔を見て、母の姿が見えなかった理由がわかった。泣きはらした顔をしているのだ。定年まで公務員としての仕事を全うし70歳代後半の今なお気丈な母なのだが、普段は決して人前では涙を見せないそんな気丈な母が、私の出発準備を終えた後、影で泣きはらしていたのだ。旅立ちの時に、私に泣き顔を見せてはいけないと考えたのだろう。それでも、私が旅立つ姿を一目見たくて玄関から少しだけ顔を覗かせたのであろう。
あんなに泣きはらした母の顔を私はこの時生まれて初めて見た。母の思いが沁みて、今度は私が涙が溢れて止まらない。それでも、今私が泣いて父を心配させてはいけないと考え、泣くまい泣くまい、気丈に振舞おうと助手席で涙をこらえるのだが、そんな思いとは裏腹に止めどなく涙が溢れ出る。
父は私の心情を察してか一言も話しかけず、ただ黙々とフェリー乗り場まで運転を続けた。もしかしたら、父も泣いていたのかもしれない。
フェリー乗り場には、祖父母と叔父一家が見送りに来てくれていた。当時はまだビデオカメラなどない時代だったのだが、祖父に8ミリ映像を写す趣味があったため、8ミリカメラでデッキから私が手を振り船が岸壁を離れる様子を撮影してくれていた。お陰で、帰省するとこの映像を見せてもらい当時を懐かしんだものである。
フェリーは一昼夜かけて次の日の朝東京に着いた。
父がしばらく滞在して、私の東京での新生活の準備を手伝ってくれた。
そして父が田舎に帰る日がやって来た。どうしても父との別れがつらい。心細い。朝から泣けてしょうがない。後1日でも滞在を延長して欲しいと泣きながら父に頼むのだが、父には仕事もある。 実は私の東京行きを直前まで反対した父であった。そんな父が、東京でひとりで生きる決意をした私を激励し、心を鬼にして田舎へ帰って行った。
後で父から聞いた話だが、父にとってもあの時ほど辛かったことはないらしい。部屋の窓から泣きながら手を振る私の姿が、父にとっても人生において忘れえぬ光景だと、よく話してくれたものだ。
そんな父ももう既に他界している。
こうして私の東京での初めての自立生活がスタートしたのだが、父が去った後午前中泣きはらした私は、午後には気持ちの切り替えをした。この東京で強く生きていかねば、とその日の午後早速出かけることにした。ターミナル駅まで電車に乗って出かけ買い物をしたことを憶えている。
あれからウン十年が経過し、大都会東京で図太く生き抜いている私が今ここにいる。
今年の母の日には、どんな親孝行をしようか。
それは、今からウン十年前の3月下旬のある日、新卒で就職するために田舎から東京へ上京した日の情景である。
東京へは父が軽トラに荷物を積んで、私の田舎から海路フェリーで東京まで送ってくれる計画を立てていた。(私の父は造園の趣味があったため軽トラを所有していて、それを私の引越しに利用することにしたのだ。)
出発の日の前日からあいにく春の大雨で、荷物の積み込みに難儀した。そして旅立ちの朝となり、まだ降り続く春の雨の中いよいよ出発の時間となった。
さっきまでお弁当を持たせてくれたり何だかだと世話を焼いてくれていた、今回は留守番役の母の姿が見えない。
もう出発しなければフェリーの時間もある。どうしたんだろう、娘の旅立ちという人生におけるビッグイベントの大事な時に母は見送りもせず何をしているのだろう、と不服に思いつつ車に乗り込んだ。
やっと母が玄関から少し顔を出した。その顔を見て、母の姿が見えなかった理由がわかった。泣きはらした顔をしているのだ。定年まで公務員としての仕事を全うし70歳代後半の今なお気丈な母なのだが、普段は決して人前では涙を見せないそんな気丈な母が、私の出発準備を終えた後、影で泣きはらしていたのだ。旅立ちの時に、私に泣き顔を見せてはいけないと考えたのだろう。それでも、私が旅立つ姿を一目見たくて玄関から少しだけ顔を覗かせたのであろう。
あんなに泣きはらした母の顔を私はこの時生まれて初めて見た。母の思いが沁みて、今度は私が涙が溢れて止まらない。それでも、今私が泣いて父を心配させてはいけないと考え、泣くまい泣くまい、気丈に振舞おうと助手席で涙をこらえるのだが、そんな思いとは裏腹に止めどなく涙が溢れ出る。
父は私の心情を察してか一言も話しかけず、ただ黙々とフェリー乗り場まで運転を続けた。もしかしたら、父も泣いていたのかもしれない。
フェリー乗り場には、祖父母と叔父一家が見送りに来てくれていた。当時はまだビデオカメラなどない時代だったのだが、祖父に8ミリ映像を写す趣味があったため、8ミリカメラでデッキから私が手を振り船が岸壁を離れる様子を撮影してくれていた。お陰で、帰省するとこの映像を見せてもらい当時を懐かしんだものである。
フェリーは一昼夜かけて次の日の朝東京に着いた。
父がしばらく滞在して、私の東京での新生活の準備を手伝ってくれた。
そして父が田舎に帰る日がやって来た。どうしても父との別れがつらい。心細い。朝から泣けてしょうがない。後1日でも滞在を延長して欲しいと泣きながら父に頼むのだが、父には仕事もある。 実は私の東京行きを直前まで反対した父であった。そんな父が、東京でひとりで生きる決意をした私を激励し、心を鬼にして田舎へ帰って行った。
後で父から聞いた話だが、父にとってもあの時ほど辛かったことはないらしい。部屋の窓から泣きながら手を振る私の姿が、父にとっても人生において忘れえぬ光景だと、よく話してくれたものだ。
そんな父ももう既に他界している。
こうして私の東京での初めての自立生活がスタートしたのだが、父が去った後午前中泣きはらした私は、午後には気持ちの切り替えをした。この東京で強く生きていかねば、とその日の午後早速出かけることにした。ターミナル駅まで電車に乗って出かけ買い物をしたことを憶えている。
あれからウン十年が経過し、大都会東京で図太く生き抜いている私が今ここにいる。
今年の母の日には、どんな親孝行をしようか。
愛情のこもった良い話をありがとうございます。
私も18歳の春に山村から上京しました。右も左も分からない東京での学生生活は、私の自立への序章だった様な思いがします。
美大に進みたいと言う我が儘な私に、姉も母親も反対の様でしたが、寡黙ながらも許してくれたのは父親でした。12年前に他界しました。
東京での下宿生活には色々な想い出がありますが、忘れられないのは母親から送られてくる沢山の蜜柑でした。食べ切れないのです。友人にも分けましたが、それでも余リ、腐ってゆくのです。中には何時までも元気な蜜柑があって、それが暗い下宿部屋でオレンジ色の光彩を放っているのです。何故か、深い悲しみが襲い、私は涙したものです。
両親の痛いほどの子どもへの愛情と思い遣りを、この文章を書きながら改めて覚えるのです。
島崎藤村の歌に「惜別の歌」があります。友との別れですが、別れは親子の間でもあるもの。
ある時期でお親子の別れは、子どもの自立への旅立ちであり、親の子離れでもあるでしょう。
「旅立ちの日の情景」は私自身の自己投影でもあるような気がします。
実は今日のブログは別のオピニオン記事を予定しておりました。
この記事の話は実話で、私の頭の片隅に忘れえぬ思い出として常に存在しているのですが、今日の午前中家事をこなしている時に、どういう訳か表出してきたのです。
もしかしたら今春の雨の多い不順な天候のせいなのかもしれません。
雑記カテゴリー記事をしばらく書いていないこともあり、今回綴ってみました。
まさに私にとりましても東京でのひとり暮らしは自立への序章でした。
やはり、一緒なのは母親が宅配便を送ってよこすのです。米から醤油から野菜から手作りの惣菜まで…。これは今なお続いています。今でこそ、家族がいるので食べ切れますが、一人の時はガイアさん同様に食べ切れません。米には蛆虫が湧くし、滅多に腐らない醤油まで腐るほど送ってくるのです。もういらないとも言えず、母の愛情を思い、米は洗って食べました…。
私の場合まだ子どもに手がかかるので、こういう母の境地にはなれませんが、こんな私にもいつかは子離れの時がくるのでしょうね。
老いさんのは「猫も杓子も東京にあこがれ・・・」ての心境の時代でした。
「さとちゃん」の時代もでしょうか。
それに、もしかして、「さとちゃん」第一子だったのかな。
ご両親にとって、初めての「子」や「女の子」は、特別な思いがありますからね。
でも、老いさんの時は、兄、姉がもう既に上京していましたので、単身、親の見送りも無く、上京しました。東京の「人の多さ」に先ず、驚き、電車に乗るのに「時刻表」を気にしないで駅に行き、次から次へとホームに入るその光景に圧倒されたものでしたね。
「お金」が掛かるからと、兄の「高円寺」六帖一間に同居。
これが、「ケンカ」のもとで、2年程で「三鷹」に引っ越しました。
あの頃の事が懐かしく思い出されました。
今、こうして居れるのもあの頃の「両親」の愛情の賜物ですね。
感謝。感謝です。
私の場合、地域的に、しかも女でしたので東京へ出るというのは大変稀なことでした。しかも我が家は既に姉(現在米国在住)も外に出ていたため、私の東京行きは父の猛反対に遭いました。
娘2人に出て行かれて親は嘆きましたが、これは親が自立心旺盛に育ててきた結果だと思います。
何で東京なのかは自分でも説明がつきにくいのですが、なぜか東京と決めていました。今思えば、自分の生き方に合っている環境だからこそ何十年もこの土地で生きているのだと思います。
これからもこの地で生きてゆきます。