私め原左都子の場合は、“断酒”をしていると言うよりも。
昨年10月末頃に自宅駅近くの路上にて激しく転倒し救急搬送され、左膝複雑骨折のため入院・手術を余儀なくされた身だが。
(参考だが、この時私は一滴たりとて飲酒していないしらふの身体状況だった。)
その転倒時に右顎を強打した関係で脳震盪を起こし一時記憶が飛び、翌日にも再び意識を失い転倒して頭の後ろを強打するとの大打撃を被っている。
左膝複雑骨折手術後退院して後、私は一滴の酒をも口にしていない。
その理由とは、決して「断酒」という類のものではない。
私としては二度も続けて転倒し、顎や後頭部を強打した事実が未だに“恐ろしい”記憶😨 として我が脳裏りこびりついてしまっているのだ。
もちろん病院の脳神経科にて2度の転倒後すぐに2度ともCT検査を受けている。 その結果としては、「異常無し」なのだが。
どうも、未だに2度の転倒の後遺症を引きずっている感覚が少しあるのだ。 (CT検査では見つけられない脳内異常が完治していない危険性をも、少し危惧している。)
こんな身体状況で、酒を飲む気には到底なれない。
私の場合 大酒飲みではあるが、決して元々「酒依存性」は強くないと自己診断している。
それが証拠に、2度の転倒そして手術退院後 ただの一滴も酒を体内に入れていない。
さて、2023.01.08付朝日新聞「天声人語」は、“断酒”にまつわる話題が取り上げられていた。
早速、以下に一部を要約引用しよう。
“ソバーキュリアス。 直訳すれば、しらふの好奇心。 あえてお酒を飲まないことで得られる気づきといった意味か。
作家の桜井鈴茂さん(54)がそんな断酒の生き方を始めたのは3年前。ひどい二日酔いがきっかけだった。 直ぐに気づいたのは「1日の時間が長く感じられるようになった。頭がすっきりし、夜には読書もできる」
以前はほぼ毎日晩酌していた。 酔うと攻撃的に議論をぶつける自分が嫌だった。「何度も酒で失敗しました。あと10年早くやめておけばよかったな」(中略)
確かに人類の歴史とはお酒とはお酒との歩みに他ならない。<夕とて飲まざるなし>とうたったのは普代の陶淵明。(中略) もしも偉大な詩人たちが晩年に禁酒していたなら、どんな詩を残していただろう。
飲むか、飲まないか。 人間らしい悩みの中に新たな気づき見つけたい。
(以上、朝日新聞「天声人語」より一部を引用したもの。)
再び、原左都子の酒の現状に戻ろう。
結果として私が断酒して以降、既に80日近い月日が経過している。
未だに、(2度も立て続けに倒れて意識を失った身にして、その現実を思う都度)酒を飲むとの行為が“恐ろしくて”酒に手出しできない状況だ。
そんな我が“酒無し”の日々を語るならば。
いやそれ以前の問題として、左膝が完治しない限りそもそも自由度が全く失われた状況下にある。 (加えて、世間ではコロナ禍が現在猛烈な勢いで盛り返している様子でもあるし…)
酒とは楽しく飲みたいものであるのは、皆同様であろう。
我が酒の再開は、おそらく左膝に入れた金属(針金)を除去できる1年後以降になるだろうか??
私の場合は 冒頭引用した作家の桜井氏のごとく、酒を飲んでいないからと言って「1日の時間が長く感じられるようになった。頭がすっきりし、夜には読書もできる」などとの印象は、全く無い。
むしろ いずれの現象に対しても感性が鈍り、また達成感が得にくく、つまらない日々が続いている感覚すらある。😫
とにかく、この私にとっては左膝を完治させることが何にも増して先決問題だ。
少し先のこととなろうが、それが叶った暁には再び美味しい酒を堪能できることだろう。