原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

そして、1 0 0本達成

2008年03月11日 | 自己実現
 当ブログ「原左都子エッセイ集」を開設以来、今回の記事でちょうど100本目となる。先週開設満6ヶ月を迎えているため、半年間で100本、と言うことは2日に1本強のペースで綴り続けてきた計算になる。開設当初は気合が入っていたこともありほぼ一日1本のペースで綴っていたが、近頃は一週間に3本程度のペースを目標としている。

 開設100本を記念して、本記事においては「原左都子エッセイ集」の記事につき自ら論評してみることとする。

 「原左都子エッセイ集」の開設の趣旨は、“自己のオピニオン”の公開にある。これに関してはバックナンバーにおいて再三述べてきているので、読者の方は既に十分にご存知のことと思われる。

 上記の「原左都子エッセイ集」のタイトルの下のブログの説明文に“つれづれなるままに綴ります。”と記載してあるが、その実態は決して“つれづれなるまま”ではない。1本1本が真剣勝負、ただならぬ集中力で綴っている。(“雑記”カテゴリー等、手抜き記事も多いのだが…) こんな拙文を書くのにそんなに集中力が要るの?と、せせら笑われることは承知であるが、元々私は同時に複数のことをこなす能力を持ち合わせていないことや、何分年齢的な事情もあり集中力なくして綴れないのだ。家族には執筆中は決して話しかけないよう、そしてテレビ、音楽等音の出るものは禁止令の下、傍らには各種辞書、記事によっては新聞のスクラップ、六法全書、医学書、各種文献、参考図書、自らの学生時代、及び教員時代の講義ノート等を手の届くところに配備し、眉間に皺を寄せて綴っている。

 当ブログの内容は決して日記ではない。タイトルの通り自己のオピニオンを綴ったエッセイであるため、テーマごとの下調べがかかせない。この下調べ、遡ってテーマの設定に結構時間を費やす。愛読している朝日新聞からネタを引用する場合が多いのだが、そもそも新聞を読む時間が取りにくい。日常生活の合間を縫って読むのであるが、どうしても後回しになってしまって日にちが経過してから読む場合が多い。それでも、たとえ一週間遅れようが必ず新聞には目を通すのだが、時事もののオピニオンを綴りたい時など、残念ながら旬を過ぎてしまう。最近、時事論評ものの記事が少ないのはそのためである。今後の展望としてはもっと時事論評ものを増やしたく考えているのだが、さて時間的な問題が解決できるかどうか…。

 近頃、味を占めているのは、いただいたコメントから記事の題材を拝借することだ。
 ご覧のように、ここのところ当ブログ記事へのコメントが急増している。しかもその内容のレベルの高さたるや、当初の予想をはるかに上回っており、私は日々うれしい悲鳴を上げている。記事本文を書くことよりも、コメントの返答に費やす時間の方が多大なくらいである。自己のオピニオンを公開し、そのオピニオンに対する反響をいただく、そしてまたその反響に応えていく…、このように、私の綴ったエッセイ集ブログが議論の場として有意義に機能し循環していくことは開設時の狙い通りであり、まさにブロガー冥利に尽きる。
 本ブログをお読み下さる場合、是非ともコメント欄に目をお通しいただきたい。記事本文よりもさらに充実した議論がなされ、私も記事同様、時にはそれ以上に真剣勝負で返答コメントを書いておりますので。

 “雑記”カテゴリーに関しては手抜きであるとは書いたが、決して記事自体を手抜きしているという意味ではない。下調べや記事の検証作業が必要ないという意味で楽に書けるのである。この種の文章を綴ることも文章力の鍛錬になるため、ブログの開設趣旨からは外れるがやはり“遊び心”で今後もたまに取り入れていきたいと考えている。

 日々更新のブログの世界においては記事が通り過ぎてしまい、蓄積性がないことが何ともはかない、という私の思いについては既にバックナンバーで述べている。それでも、当ブログの場合バックナンバーの記事にコメントをいただくことも少なくない。これは記事がまだ生命力を持っていることを伝えてくれ何ともうれしいものである。 一記事一記事に生命が宿るような、そんなエッセイを綴り続けたいものである。

 さしあたり、次は200本達成を目指し、今後も真剣勝負を続けよう。
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人間関係継続の源は循環力

2008年03月08日 | 人間関係
 人との出逢いとはかけがえのないものである。それがたとえネットというバーチャル世界での出逢いであっても。如何なる相手との出逢いであれ、如何なる出逢い方をしようが、その人間関係が末永く続くようその出逢いを大切に暖め続けたいものである。
 以上は、前回の記事「生身の人間が恋しい…」においても記述した。

 ところが残念なことに、そんな思いも虚しく現実にははかなく消え去っていく人間関係の方が大多数であろう。

 人間関係を継続させるポイントは何なのか? どうすればかけがえのない人間関係を末永く暖め続けられるのか? 今回の記事ではこのテーマについて論評してみたい。
 (今回の記事のテーマはバックナンバーの記事に頂戴したコメントからヒントをいただいた。Rさん、いつもお世話になっております。感謝申し上げます。)

 結論から先に述べよう。 人間関係継続の源は“循環力”である。
 これでは分かりにくいのでもう少し説明すると、“パワー”と“ハート”の相互作用及び循環が人間関係を継続させる、と私は考える。

 “パワー”に関しては当ブログのバックナンバー、学問・研究カテゴリーの「組織論におけるパワー概念」においても記述しているので参照いただきたいが、わかりやすく説明すると、“相互に行使するあらゆる種類の影響”すなわち、人間同士の影響力を意味する。 そして“ハート”については分かりやすいが、それは“愛”であり“思いやり”であり“配慮”であろう。“ハート”は“パワー”の一類型であるが、人間関係継続における最重要要素であると私は考えるため、ここでは区別しておこう。

 人間関係において、この“パワー”と“ハート”の循環力が正常に保たれた状態にあると、すなわち、“パワー”と“ハート”の相互作用がうまく循環し続けている状態の下では人間関係は継続し続ける。
 ところが、この循環力がなくなってしまったり、バランスが崩れて一方通行になったり、空回りすると、人間関係は軋み始める。そして、その状況は片方、あるいは両者に欲求不満をもたらし、人間関係の終焉へと繋がっていく。

 この循環力は、そもそも人間同士の相性によるところが大きいかもしれない。
あるいは、お互いの人格や能力等のバックグラウンドに負うところも否定できないであろう。
 それでも、この循環力を保ち続ける一番のキーポイントは、やはりその人間関係を継続したいという思いと努力なのではなかろうか。結局、“ハート”の循環が肝要と私は考える。

 世の中にはいろんな人間関係がある。友達関係、同僚関係、師弟関係、夫婦関係、親子関係、ネット上の関係、 不倫関係(???)…

 すべての人間関係がうまくいくと、戦争さえなくなるような気さえする…。 それは極論であるが、私はせっかくの人との出逢いを真に大切にしたいと考えて生きている。

 “パワー”と“ハート”共々、人との循環力を保てるよう努力を続けたい。(大切な人とは特にね!)
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生身の人間が恋しい…

2008年03月06日 | 人間関係
 本ブログ「原左都子エッセイ集」を昨年9月6日に開設して本日でちょうど6ヶ月になる。ブログ自体に関する私観については5ヶ月時点で既に振り返っている(当ブログのバックナンバー「コメントの充実に感謝申し上げます。」をご参照下さい。)ので、今回は少し別の側面からこの半年を振り返ってみたいと思う。

 本ブログを開設以来、明らかに私の生活が変化した。特に「原左都子エッセイ集」に対する反響が増えはじめた10月中旬あたりから、私の行動様式が大きく様変わりした。ネット社会への依存度が急激に大きくなってきたのだ。

 それまでももちろんパソコンは使用していた。私は、十余年程前から投書投稿、意見書提出活動をライフワークとしていたため、ワード機能を使用しての文書作成やメールによる投書投稿、そして通常のメールの送受信手段としてパソコンを利用する事等は日常茶飯事であった。

 ブログ開設後の一番大きな変化は、ブログを通じての人との出逢いである。
 私のブログの趣旨は“自己のオピニオンの公開”でありコメントを歓迎しているため、公開した記事に対する反響をいただく。読者が増えるにつれこの反響も増大していくのであるが、その後意見交換のために読者の方とメッセージのやりとりが続いたりする場合もある。それが発展してブログを超えた人対人のお付き合いになったりすることもある。私の場合、まだどなたとも実際にはお会いしたことはないのだが、メール交換やブロガーのコミュニティを通してのメッセージ交換という手段でそのお付き合いが長く続く場合もある。
 そのこと自体はとてもうれしい。いかなる出逢い方をしようが、人との出逢いというものはかけがえのないものである。今後も大事にしていきたいと思っている。

 その一方で、私のブログ生活が半年に及び、メールやメッセージ交換というネットによる人とのお付き合いが生活時間の大きな割合を占めてきた現在、私の頭の片隅にモヤモヤした複雑な思いが交錯し始めているのだ。

 パソコンで携帯でメールにて情報のやり取りをすることは、現在の社会では既に一般的な通信手段である。今やこれを利用していない人の方が少数派であろう。
 元々の知り合いとこのメールのやり取りをすることに関しては私は特に抵抗感はないのだが、ネットで知り合って実際に会うこともない相手とのやり取りに関して、複雑な思いがあるのだ。

 私の頭をもたげる複雑な思いとは、上記のネットで出逢って実際に会うこともない人間関係というのは実は“幻”に過ぎないのではないのか、という観念である。

 人間とは肉体という実体のある存在である。ネット上の付き合いの一番の特徴はこの実体に相対することがない、というところにあろう。
 ブログに費やす時間が長くなり、この“幻”の人間関係が私の生活に占める割合が大きくなるにつれ、生活そのものが“幻”であるような不安感さえ私は持ち始めてしまっている。

 この不安感を払拭する方法は二通り考えられる。
 ひとつの方法はそれらの相手に実際にお会いすればよいということだ。ところがこの方法はまず相手の方にご迷惑であるし、私もそこまで非常識でもなく暇を持て余している訳でもない。
 そこで考えたもうひとつは、ブログをやめて元の生活に戻り、生身の人間とのみお付き合いをしていくという方法である。 より人間らしく生きるためにネットからは完全におさらばしようかと、つい最近ほんの少し真剣に考えてみた程だ。

 だが、やはりそれも極論である。ブログ開設半年が経過した現在、「原左都子エッセイ集」に自己のオピニオンを綴っていくことは今の私にとっては既にはずせない日常と化している。やっぱり綴り続けよう。

 
 それにしても、人間って肉体という実体のある生身の存在が一番魅力的だと思いませんか、皆さん?
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自己満足の効用

2008年03月04日 | 自己実現
 当ブログ先だっての「資格は取りゃいいってもんでもないが…」の記事の中で、資格取得という行為がたとえ自己満足の域を超えていなかろうが、合格による達成感は合格した者にしか味わえない、云々の私見を述べたところ、この“自己満足”に関して貴重なコメントを頂戴した。

 以下に、いただいたコメントの自己満足に関する部分を抜書きする。(Rさん、ブログ本体への無断転載をお許し下さい。)
 「自己満足?素晴らしいですよ。こんなに良いものはありません。言い切っちゃいます。必ずほかの人も満足させてますよ。自分に満足していないくせに何の努力もする気のない人ほど迷惑な存在はないじゃないですか。負けないで下さいね!」

 Rさんのコメントに対する私の返答コメントも以下に要約する。
 「確かに、私も人間が生きていく基本は自己満足であるように思う。まずは、自分自身が満足感を得たい、という気持ちがなければ何事にも感情移入できないし、努力もしないであろう。おそらく、私はそんな満足感が人一倍欲しい人間であるかもしれない。」


 さて、この“自己満足”という言葉は一般的にはマイナスイメージで使用されている。利己主義的で周囲が見えておらず一人だけ浮いているようなニュアンスさえ感じられる言葉である。 単なる“満足”という言葉とは明らかに区別された別世界の“満足”を表現しているようだ。

 すなわち、“自己満足”と一般的な“満足”との違いは社会性の有無にあるのであろう。
 上記の資格取得の例においては、その取得した資格が社会的に有用であり活用されて社会貢献している場合は、その資格取得行為は“自己満足”の範疇を超えている。だが一方で、そうではなく活用されずに単なる肩書きでしかないような場合は“自己満足”の範囲内と世間一般では認識されているのだと思う。

 それでは、“自己満足”とは社会にとって悪なのか? 
 決してそうではないと私は考える。
 まず、“自己満足”は周囲に波及し影響を及ぼす力を秘めている。これはRさんが「自己満足は必ず他の人も満足させている。」とコメントに書いて下さった通りである。 例えば逆の立場から考えると、不満タラタラの人間が傍らにいること程うっとうしくて迷惑なことはないし、Rさんのおっしゃるように自分に満足もしていないのに努力もしない人間の存在は必ずや周囲の足を引っ張るであろうと思われる。
 そして繰り返しになるが、私がコメントの返答に書いた通り、人間が人間として生きていく根源は満足感の追求にあると考える。たとえそれが“自己満足”の範疇を超えていないとしても、満足したいという欲求がなければ、何事にも感情移入できないし、努力もしないのではなかろうか。

 そして、私はその満足感が人一倍欲しい人間である。多方面、多分野において満足感を得るための試行錯誤の人生を今まで歩み続けてきている。
 きっと私はこれからも一生こうして満足感を追求しながら歩んでいくであろう。たとえそれが“自己満足”に過ぎない、と後ろ指をさされながらも…。
  
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ふ・り・ん 考

2008年03月02日 | 恋愛・男女関係
 前回の記事「遊び心と春の風」の中で“遊び心”の一例として不倫についてほんの少し触れたところ、テーマの“遊び心”よりもこの“不倫”に関する反響を多くいただいた。
 前回の記事は“不倫”について論評しようと目論んだ訳ではなく、たまたま近頃、私の周辺で不倫に関する話題に触れる機会が多いため特別の意図もなく取り上げたのであるが、反響の多さから世間での関心の高い話題と推し量ったため、改めて今回の記事のテーマとして“不倫”を取り上げることとした。


 “不倫”とはその字のごとく、「人倫にはずれること、人道にそむくこと」の意味合いがあり、社会通念上、決して肯定的にとらえられる事柄ではない。前回の記事に対する反響の内容も、やはり“不倫”に関して否定的意見が多数派である。
 
 そもそも“遊び心”の記事の中で何故“不倫”の話が出てくるのか理解に苦しむ、というコメントをいただいている。おっしゃるとおりである。私は前回の記事で“遊び心”とは生活のエッセンスとして欠かせない大切な要素である旨の私見を述べている。この私見からは、“不倫”が人倫にはずれる行為である以上“遊び心”の一例とは成り得ないのは明白である。この点は、この場でお詫び申し上げたい。

 不倫は肯定的にはとらえにくい行為とした上で、人を好きになるということは理屈では片付けられない問題である、という趣旨のご意見を複数いただいた。実は私もまったく同感である。

 不倫に限らず、恋愛とは理性を超えた感情のなせる業である。“恋愛は勘違いから始まる”、とはよく言われる言葉であるが、まさにその通りである。恋愛とは生理的、本能的、そして動物的ですらある。 心が欲する、体が欲する感覚的欲求である。人を好きになったことに理由を見つけてみても、それは後から理性的に思いついたこじつけに過ぎない。

 そんな感覚的欲求である恋愛を、不倫である以上は大きなハンディの下展開していかなければならないのである。後ろめたさという精神的負担や周囲からの非難、そして時間的制約等をやり繰りしながら、無難にこなしていかなければならないのである。これは結構苦しい、つらい、骨の折れる業である。
 このハンディを乗り越える能力や思慮なく不倫に走ってしまうと、必ずや悲しい結末が待ち構えている。家族との別れであったり、あるいは恋愛相手との別れであったり、はたまた社会的信頼の失墜であったり…。

 「不倫もやる以上は真剣にやるべき」とのご意見も頂戴している。詳細を伺っていないため真意は不明であるが、誰だって恋愛は真剣にやりたいものだ。そういう意味では私もまったく同感ではある。それが不倫である以上は、上記のごとくハンディを背負いつつバランスを考慮しつつという話になると思うのだが…。

 人類の営み上恋愛は不可欠であるし、人間にとって人を愛することはこれ以上すばらしい業はないと言っても過言ではないのだが…。


 さて皆さん、この“不倫”をどう考えましょうか?  
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