原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

最高傑作は “Next One”

2012年01月18日 | 自己実現
 上記の表題は、「喜劇王」との異名を持つイギリス出身の喜劇俳優であり映画監督でもある チャールズ・チャップリン氏 の名言である。

 この言葉を、私は本日(1月18日)昼間、NHKテレビ番組「スタジオパークからこんにちは」にゲスト出演していたアコーディオン奏者 coba氏 のトークの中で聞いた。


 番組の冒頭から、13㎏もあるという見るからに重厚感があって美しいデザイン(フランス製とのことだが)のアコーディオンを抱えてcoba氏は登場した。
 一方、coba氏は横縞模様のTシャツという軽装のいでたちである。 
 そのアンバランスなミスマッチ感が面白いなあと思いつつも、このまま番組を見るかどうか迷っていたら、「後程cobaさんのアコーディオンの生演奏があります。」との司会者の説明である。  音楽好きの私としては是非その生演奏を聴きたいものだ。
 (後にcoba氏のTシャツ軽装スタイルの理由が私なりに理解できたのだが、重量のあるアコーディオンを抱えての演奏は2時間のステージで2㎏体重が減る程ハードであるとの話だ。 バレエ等ダンス公演でも出演者は一ステージで体重が何㎏か減少すると見聞しているが、まさに同様であろうことを重々納得の私である。)

 生演奏はまだかまだかと楽しみにしつつそのままトーク番組を見ていた私なのだが、coba氏のトークがこれまたエネルギッシュである。 司会者など存在せずとて、一人でトーク独演会をしても何時間でも持ちそうな程に coba氏 の口から次々と話が展開していく。

 まず、coba氏が小学生の頃にアコーディオンを始めたきっかけの話が意表を突いた内容で興味深かった。 
 この種のトーク番組によくあるパターンとしては「父(母)も音楽家でした」とくるものだが、coba氏のお父上は純粋なサラリーマンだったらしい。 このお父上がとにかく無類のアコーディオン好きであられたようだが、coba氏曰く「とんでもなく“下手の横好き”で、まるでカラオケで下手な人程マイクを独占したがるのと同様状態を家族の前で披露する日々に、ずっと迷惑していた」との事である。
 そのお父上から小学生の時にアコーディオンを買い与えられたcoba氏は、それを早速修学旅行に持参したようだ。(番組ではその時の写真が紹介された。)  当時アコーディオンが嫌いだったとcoba氏は言いつつ、重いアコーディオンを修学旅行に持参した事実からして、お父上の影響を多大に受けアコーディオンに目覚めた事を物語る素晴らしいエピソードであろう。


 ここで原左都子の私事に移るが、私もアコーディオンには小学6年生の時に初めて触れた。
 元々音楽好きの私は、小さい頃から楽器を嗜む事を大いに好んでいた。 幼稚園児の頃経験したカスタネット、タンバリン、トライアングル等の打楽器やハーモニカ、小学生になってからはリコーダーや鼓笛隊の小太鼓も主体的に楽しく経験している。 
 ところが私は幼少の頃ピアノ等の鍵盤楽器の経験がなかったため、ピアニカやアコーディオンに関してはどうも苦手意識が強かった。  そんな時、音楽の先生から卒業音楽会でアコーディオンを担当するよう私に指示があったのだ。 (当時は生徒本人の立候補制ではなく、教員の判断指示で発表会の担当者が決定するのが慣例だった時代背景である。)

 家には姉が習っていたオルガンはあったものの、アコーディオンに触れるのはその時が初体験だった。
 まず困惑したのは、これが小学生の我が身にはとにかく重いのだ。 
 そして当時の小学校にあったアコーディオンとは片側に鍵盤、もう片側に蛇腹しかない単純な構造だったと記憶しているが、蛇腹操作が想像以上に重たくて難しい…
 鍵盤操作は難無きを得たものの、アコーディオンという楽器とはもう片方の蛇腹操作こそが音量を絶やさぬために重要との認識の下、両手のコラボレーションに幼い私なりに幾日も集中し精進した思い出がある。
 (結局小学生当時何故私が音楽教員からアコーディオン担当に指名されたのかと思い返すに、身長が高くアコーディオンを持って耐える体型だった事と、少しの事ではへこたれない努力家であったとの理由からなのだろう。? )


 アコーディオン奏者であられるcoba氏の生演奏を、その後この番組内で聴くことが叶った原左都子である。

 演奏に際して coba氏曰く、今回NHKの生放送で披露するナンバーとは、ご自身が今まで発表されたアルバムの中で一番売れた何十年前かのヒット曲を“超越したい”との意向で作った楽曲であるらしい。 
 それが、今回の「原左都子エッセイ集」の表題に掲げたチャップリン氏の名言である、「最高傑作とは“Next One"」理念に基づいているとのトークだったのである。

 coba氏は、フィギュアスケーター銅メダリスト高橋大輔氏のバンクーバーオリンピックショートプログラムの楽曲も提供されているとのことだ。
 事前に高橋氏と対等な立場で議論した結果、スケーター本人の高橋氏が演技をし易いバージョンとするべくcoba氏が提供した楽曲を高橋氏自らがカットして使用した、との話も印象的であった。 その演技を観たcoba氏が感じたのは、自分の意向とは異なる楽曲部分を高橋氏が使った演技は実に素晴らしかったと共に、お互いにそれぞれの分野に於いて世界のトップである以上、今後も対等な立場でコラボレーションを続行したいとのトークであった。


 「最高傑作は“Next One”」(次の作品こそが僕の最高傑作だよ!)  実に素晴らしい名言である。

 今日こそ素晴らしい日でありたいと欲しつつ日々暮らしている単なる一庶民の原左都子とて、“Next One”に向かってまだまだ頑張るぞ~~~

センター試験が今後の教育界で果すべき使命

2012年01月16日 | 教育・学校
 今年の大学センター試験も例年通り1月中旬の土日である1月14日、15日の日程で実施され、昨日終了した。

 例年運営上のトラブルが多発しているセンター試験であるが、残念ならが今年もその例外ではなかったようだ。
 今年から新しい試験方法を導入した社会系教科において、受験生4500人に影響を及ぼす大規模な問題冊子の配布ミスが発生してしまったとの報道だ。
 特に試験方法の変更等の措置を施す場合、このような失態を防止するべく事前準備と現場指導を徹底するべきであるにもかかわらず、これぞ“お役所仕事”と表現できそうな初歩的ミスは一体どうしたことか?  このトラブルに関するセンター側と各試験会場との見解に相違があるようだが、被害に遭った受験生の救済措置を徹底すると同時に、今後の運営体制の万全な構築を望みたいものである。 
 (まったくもって独立行政法人のごとくの官僚の“天下り機関”などそもそも廃止するべきであるし、国家は消費税を上げる議論に入る前に早急に公務員の報酬をカットしろよ!と国民から後ろ指を指されるというものであろう。 もういい加減、センター試験の運営を民間に移行したらどうなの?と言いたくもなる。) 


 さて、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて、既に大学センター試験に関連する記事を数本綴り公開している。

 私自身はセンター試験はもちろんのこと、共通一次試験も経験していない古き世代である。 国立大学進学志望であった私の大学受験当時は国立一期、二期時代であり、3月に受験する国立大学へ直接出向き各大学が独自に課す一発勝負の試験に臨んだものだ。 (参考のため、30歳を目前に原左都子が再び受験した公立大学は“特別選抜”枠でチャレンジした故に、この時もセンター試験は受験していない。)

 そんな原左都子にとって大学センター試験は未知の世界であるが、何分我が子が大学受験生であった(過去形で表現しているのは既に娘が大学に推薦合格している故)ため、我が子生まれ持っての“お抱え家庭教師”である私は数年前よりセンター試験の諸情報を積極的に収集してきている。


 例えば「原左都子エッセイ集」2008年1月に公開した 「リスニングは全員に必要か?」 と題する記事に於いては、リスニング試験時のトラブル多発を受け、大学センター試験に於いてそもそもリスニング試験自体が必要なのか?との私論を展開した。 その内容を少し以下に振り返ろう。
 私事を語ると、私の世代は中高大学の学校教育においてリスニングを含めて音声教育は一切受けていない。(ただし、それは我が専攻が英語とは直接かかわりのない分野であったためかもしれない。)  そんな私もその後英会話に触れそれがある程度出来る時期があった。 それは米国人男性と遠距離恋愛をしていた独身時代の一時期であり、この恋愛のお陰で当時私は英語で喧嘩ができる程の英会話力を習得した。 “英会話マスターの最短距離はネイティブの恋人を持つことである”とは昔からよく言われている格言であるが、まさにそれを地で行った訳である。  あれから年月が流れ今やネイティブと話す機会など皆無であり、現在の私は海外旅行の場面でも初歩的な英語しか喋れないレベルに成り下がっている…。  (要するに一時の中途半端な英会話力など直ぐに廃れ去るということだ。)
 話を戻して何が言いたいのかというと、センター試験で受験生にリスニングテストを課す対象とは、専門英語分野への進学を志望する学生のみで十分なのではあるまいか、ということだ。 それらの受験生には当然ながらリスニングも含めて高度の英会話力を問うべきであろう。  ただしこれから大学へ進学して学問を究めるべく学生の資質として、英語の筆記試験であるレベル以上の成績がとれる、すなわち読み書き能力も同時に必須であるべきことは私が言うまでもない。
 リスニング試験は「税金の無駄遣い」の側面も大きいのではあるまいか。 このセンターリスニング試験でほくほく喜んでいるのは、国との癒着のICプレーヤー納入業者のみなのではなかろうか??

 現在の原左都子の私論に移るが、リスニング試験に対する見解に現在も変化はない。
 例えば私立中高等においては帰国子女やハーフ子女の英会話力“のみ”を重宝し特待している学校が多いようだが、老婆心ながら、その種の子女達のその後の社会での活躍の程は如何なるものであろうか???


 2010年10月バックナンバーに於いては 「センター試験難易度2分割案に異議申す!」 との記事を公開している。
 当時、独立行政法人である“大学入試センター”が現在存在する大学の実態に即して大学センター試験を難易度に応じて2分割する案を提示したのである。
 その事実を受けて原左都子は、これが学問を伝授しているとは言い難い“名のみの大学”を切り捨てる意図であるのならば容認できるが、そうではなくその種の大学を温存する趣旨だとするならば、学力の無い学生を生み出している高校教育以前まで遡って学校教育を再考するのが先決問題である、との私論を展開した。 
 
 その後1年以上の月日が流れているが、この2分割議論をメディア上で見聞しないことに安堵している私である。


 そして2011年5月には 、我が娘が通う高校進学担当教員から見聞した情報に基づき 「EQなるものと大学合格率との相関関係」 との記事を公開している。
 その記事の一部分のみ要約しよう。
 普段より情報収集力がある私にとって、娘が通う高校の保護者会に参加しても特段のトピックス的収穫は得られないのであるが、目新しい話題と言えば慶應義塾大学が本年度(2012年度)入試からセンター試験利用方式を全面廃止するとの情報だった。
 この廃止の理由こそを元高校教員である私としては知りたい思いだが、残念ながらその説明は聞けないままだ…。
 慶應と言えば“一応”日本に名立たる私学であろう。(“一応”と表現するのは、何分原左都子は私学受験の経験すらなく私学とは無縁の人生を歩んでいるため、私学の序列の程が実感として把握できないためである。) 
 今となっては大学を目指す若者の8割(約50万人とも言われている)が受験するセンター試験の合格結果を公にする事とは、大学の今の地位の整合性を証明する大いなる手段となるはずであるのに、慶応は何故廃止するのだろう??  それとも万人が受ける巷のセンター試験など、歴史と伝統を誇る慶應にとって相応しくないとでも判断したのであろうか??   あるいは慶應を含めた一応“名立たる”私学とは、未だに著名人及びその卒業生子女を優先入学させているのが現状のようでもあるぞ。(例えばアナウンサーになった元“モーニング娘”の何某氏とかねえ~) それら慶應生OBが卒業後もそのレベルの程はともかく著名度のみで「慶応」の名を世間に知らしめてくれるのをいいことに、センター試験などくそ食らえとの魂胆なのだろうか?? 
 今回の慶応大学のセンター試験全面廃止措置とは、歪んだエリート特権意識に基づいた思い上がり思想とも受け止められそうに思うのは私だけだろうか。
 我が国が昨年3月に歴史的大震災を経験して尚、“学問の府”であるべき大学の中に、自己の利益を追求するがあまり身の程知らずに視野の狭い大学が存在することにうんざりの原左都子である。


 最後に、我が子が今年 “大学センター試験” を受験したいきさつを述べて締めくくろう。

 我が子は既に某私立大学の「推薦入試」合格を昨秋決定している。 そんな我が娘も一昨日と昨日、今年の大学センター試験に挑んだ。
 それは娘が通う高校の教育理念に基づく措置であった。 
 「高校生としての学習力」を保持したまま高校を卒業させ大学に入学させるべき責任が高校にはあるため、推薦入学が決定している生徒も全員“センター試験”受験強制!!

 やはり高校教育とはこうあるべきであろう。
 そういう健全な高校も存在する事を視野に入れ、今後高校生が卒業後一人前に世に羽ばたける学業の評価基準として “大学センター試験”とは存在するべきである。 そのためにはたとえ官僚の“天下り組織”であるとは言え、今後はその役割を果たせる組織として正常に機能して欲しいものであるぞ。

 少なくとも毎年運営ミスを繰り返し、受験者をないがしろにすることだけは金輪際避けるべきである!

あばたもえくぼ、ブスも3日で慣れるもの

2012年01月14日 | 人間関係
 先週の話になるが、正月に我が家の玄関先に飾った“注連(しめ)飾り”を取り外すため玄関から外に出ようとした私は、やわら自分の“身体的特徴”を思い起こした。

 「あっそうだ。 頭にガーゼを貼った姿のまま玄関先で作業をするのをご近所の人が見ると、どうしたんだろう?と勘ぐるだろうか?」
 それに我が娘が応えて曰く、 「じゃあ、帽子を被って作業をしたら」 
 「私が替わりに作業するよ」とでも言ってくれるのかと思いきや、未熟な世代なりの突拍子もないアドバイスに爆笑しつつ 「それじゃあ、まるで“不審者”だよ」 と応えた私である。

 この話が分かりにくい読者の方々も多いことと推測して、少し補足説明をさせていただこう。
 原左都子は今から遡る事16年程前に“癌”を患っている。 その後癌の再発転移もないままこの通り元気に日々を過ごしているのだが、人知れず癌手術跡の“置き土産”を頭部に一生抱えるはめとなっているのだ。
 この“後天性”の我が身体的特徴をカバーするため、普段家庭内では頭にガーゼを貼って対応している。(参考のため、外出時にはオーダーウィッグ使用の状況)
 子どもが小さい頃は“ガーゼ頭”のまま外に出ざるを得ない機会が多かったのだが、やはり周囲からの奇異なものを見るような視線は避けられなかったものだ。  現在の住所地に転居して以降、たとえ近隣にも“ガーゼ頭”を披露することは避けた方が無難と判断し、玄関からある程度長時間外に出る時(例えばゴミ出し等)には必ずウィッグを着用することにしている。
 ところが一番厄介なのが、冒頭の事例のごとく玄関先での人との対応や作業等に際してである。 相手が宅配便等の業者である場合、今の時代従業員教育が徹底している様子で我が“ガーゼ頭”に疑義を呈する場面は皆無である。 一方で近隣の皆さんはどうかと考察するに、日々のお付き合いが希薄状態の現状において、一見して異様な身体特徴情報を自分からみだりに発信して不審感を募ることのないよう対応するのが、今の時代はスマートなのかとの結論に至るのである。


 さて、何故このような我が“後天性”の身体事情を冒頭で綴ったのかというと、本日(1月14日)の朝日新聞“悩みのるつぼ”に於いて、38歳女性による 「身体的特徴を言われるのが嫌」 との相談を発見したからである。

 この相談の題目を一見して原左都子の脳裏に浮かんだのは、この女性は一体如何なる“身体的特徴”を抱え苦悩しておられるのかとの懸念感と、一種の野次馬興味心である。

 早速、上記の相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 38歳の女性であるが、人はなぜ他人の身体的特徴をわざわざ声に出して言うのだろうか? 言われてうれしい事ならまだしも、本人が気にしている特徴をわざわざ指摘することが理解できない。 私が自分の身体的特徴にコンプレックスを持っているからそう思うだけなのか…  若い頃ならまだしも、最近になっても仲の良い友達に突然言われ腹が立っている。 気にし過ぎであろうか。 こんなテーマで人と話したことがないが、助言をお願いしたい。

 この相談の回答者であられる作家 車谷長吉氏 の回答においては、氏自らが生まれ持った重度の疾患故に授かった身体的特徴を抱えつつ辛い思いをした過去の事情を語っておられる。
 これは私が癌を患ったばかりに、その後頭にガーゼを貼って普段暮らさねばならない事情と重複するものであろう。

 一方、今回の“悩みのるつぼ”相談者である38歳の女性の身体的特徴とは、原左都子が想像するに、おそらく先天的あるいは家庭育成環境等において備わった外見的事情に関する単なる“見栄え”の話なのではかなろうか? 
 大変失礼ながらここでその身体的特徴の事例を直言してしまうと、例えば「チビ」とか「短足」とか、「垂れ目」とか「出っ歯」(そういうのをひっくるめて世間では「ブス」と表現しているようだが)、 あるいは「デブ」とか…  単にその種の指摘に対してこの女性は悩んでおられるのではなかろうか??

 上記の事例の中で 「デブ」 を別の位置付けにしたのには私なりの“クラス分け”理由がある。 その他の事象に関しては先天的に備わった要因に間違いないであろうが、大人の「デブ」等の体型的事情に関しては私はあくまで自己責任の範疇と捉えているからだ。

 と言うのも、私自身もいい年をして人に言われて不快な言葉があるのだ。 それは「痩せてる」だの「細い」だのという我が体型に関する指摘である。
 原左都子の現在の体型に関しては本エッセイ集バックナンバーで幾度となく綴っているが、自分の理想に基づいて何十年来保ち続けているものだ。  この体型を保つために涙ぐましいまでの努力をしている訳ではないが、我が理想とするスレンダー体型を主体的に保持している事にケチを付けられる事は私とて我慢ならない。
 ところが、普段意外とこの言葉を投げつけられる場面が多い現状である。 そのような場合、こちらとしても「あなたこそそのメタボ体型を改善するべきじゃないですか!」などと言い返したくもなるというものだ。


 今回の“悩みのるつぼ”の相談者である38歳女性が如何なる身体的特徴をお持ちなのかに関しては具体的に明記されていないため、私には想像がつかない。
 それにしても、それが回答者の車谷氏のような先天的疾患とか原左都子のような癌罹患故の置き土産の部類でなければよいのだが…。

 もしもあなたが生まれ持って授かった身体的特徴を自分の欠点と捉え悩んでいるとしても、あなたの今後の人生の歩みによっては、その“身体的特徴”を超越したあなた自身の存在を受け入れてくれる人物が必ずや出現する事と私は信じる。
 これは決して無責任な発言ではなく、人とは“身体的特徴”よりも“人格”が上回っている事を私が今までの人生経験によって確信しているからに他ならない。

 「あばたもえくぼ」「ブスも3日で慣れる」との“格言”とは、決して“身体的特徴”においてコンプレックスを抱えている人を単に励まそうとの意図の言葉ではないのだ。
 そうではなくて、元々人間とは他者とのかかわりにおいて“人格”で勝負するべきとの格言であると私は解釈しているぞ。  

藤原さん、あなたこそ「正解主義者」じゃないのか!?

2012年01月11日 | 教育・学校
 原左都子が 藤原和博氏 の姿をメディア上で見るのは久しぶりの事である。

 皆さんは、藤原和博氏という人物が過去に義務教育現場において如何なる“過ち”をしでかして、一時その名を轟かせたのかについてご記憶であろうか?


 今を遡ること4年前の「原左都子エッセイ集」2008年1月のバックナンバーに於いて、「杉並区立和田中学の悪あがき」 と題した記事を私は公開している。
 当時民間出身者として一公立中学の校長をごく一時のみ務めただけの存在の藤原氏が、何を思い違いしたのか、義務教育現場の教育責任者としてあるまじき“悪あがき行動”を展開したことに許し難い感情を抱いた私は、それを取り上げ厳しくバッシングした。


 上記バックナンバー「杉並区立和田中学の悪あがき」を以下に要約しつつ、藤原氏が当時展開した“悪あがき”について振り返ってみることにしよう。

 杉並区立和田中学は妙なことで全国的に名を轟かせてしまった。
 この“騒動”の詳細をご存知ない方のために復習すると、区立和田中学校はその名の通り公立の中学校であるにもかかわらず、民間の大手進学塾と提携して一部の“成績上位”在校生のみを対象に学校を開放し、「夜スペ」と称する夜間塾を開講したのである。 開講の趣旨は“成績上位者の学力をさらに伸ばす”ところにあるらしい。
 一公立中学のこの奇妙な行動に対し、当然ながら東京都教育委員会は「公教育の観点から疑義がある」として「待った」をかけ、いったん実施は延期された。 ところが都教委も意志薄弱で、結局杉並区教育委員会からの「学校教育外の活動」との回答を容認してしまい、名目上主催者を学校ではない「学校支援地域本部」として2008年1月26日の開講と相なった、といういきさつである。

 “騒動”の実質的な仕掛け人は、民間企業㈱リクルート出身の和田中学校長の藤原和博氏である。 現在一部の公立学校で流行っているらしい民間企業出身の校長という訳だ。 ははあ、売名行為かな? と勘ぐりたくもなる。 民間出身校長の評判は賛否両論分かれているが、民間出身者にとって公的機関は居心地のよい職場とは言えないのではなかろうか。(私自身も民間企業、公立学校両者を経験しているため、それが多少理解できる。) 事実過去において複数の民間出身学校長の自殺者も出ているくらいだ。 あくまで私見であるが、そんな肩身の狭い立場におかれている中、リクルート出身の藤原校長はご自身の居場所を作るために何とか自己PRを試みようと“悪あがき”したのではなかろうか?  あるいは、藤原校長とその大手進学塾との間に何らかの癒着でもあるのかとも勘ぐりたくなる。

 この「夜スペ」とやら、一応月謝は取るらしい。ただし、民間の塾の正規の授業料の半額程度であるとのことだが。
 和田中学の「夜スペ」賛同派の保護者の言い分を要約すると、「成績不振者には補習等の実施により手厚い保護をしてきているのに対し、成績上位者には何の手立てもしない。そんな成績上位者のために最後の助けとして夜スペを開講したのだ。」とのことである。
 ならば、何も大手進学塾と提携せずとて和田中学の教師による「補習」でよかったんじゃないの? あるいはご自身の子どもさんが“成績上位者”であることを自負する保護者の方々、そんなに塾がお好きならば半額などとせせこましい事を言ってないで、正規の授業料を払って個々に子どもさんを民間の塾に入れてあげたらそれで済む話ではないのか? 実際、和田中の生徒の中にもこの「夜スペ」を利用せずとも既に個人的に塾通いしている生徒は少数ではないであろう。その人たちとの公平性はどのように考えているのか? とにもかくにもこの話、外部者が聞くと腑に落ちない点が多い。 
 反対派からも様々な声が上がっている。「単に塾の宣伝に利用されている。」「地域本部がやることなら何でも許されるなら、区教委は要らないのではないのか」等々…。

 朝日新聞夕刊の千葉大教授の論評を紹介しよう。「学校とは本来、格差を是正するところ。学校が進学塾を認めて外部委託するなら公教育の将来はない。学校の役割と家庭や地域のやるべきことは何なのかを考えるよいチャンスだ。」
 
 私論でまとめるが、そもそも“成績上位者”“成績優秀者”って何だろう。 そこから考え直すべきではなかろうか。 
 私にとってこの議論がどうも腑に落ちないのは、“進学”という概念に社会全体が囚われ過ぎているところに問題があるという考え方からである。 子どもにとって人間にとって“いい学校へ行くこと”がそれ程すばらしいことなのであろうか? 本エッセイ集“教育・学校カテゴリー”バックナンバーをお読みいただければ一目瞭然であるが、私は偏差値偏重教育に感化され過ぎている現状の社会を嘆き続けている。 人間の目的とは決して“いい学校へいくこと”ではなく、心豊かに暮らすことではないのか。 科学、学問、文化等に触れる中で一人ひとりがそれを人生の糧とし、労働に結びつけ、生きることのすばらしさを見出し、心豊かな人生を送ることが人間の目標ではないのか。 そのためには、子どもの頃に“学習”をすることはもちろん不可欠ではある。
 小中高における公教育の役割とは決して“優等生”の輩出ではなく、学習する意欲の育成であると私は考える。 学習する意欲が身についていれば、子ども(人間)は一生に渡り自主的に知識を習得していくものである。 指導者とはそんな子どもを見守りつつそのサポートをするのが役割であると私は考える。
 子どもに対し、学習に取り組ませる餌として目先にある“進学(とりわけ「いい学校」への)”だけを示すという短絡的で貧弱な発想ではなく、大人側がもっとグローバルな視野で公教育を展開できないものなのか…。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーを引用要約)

 引用が長引き恐縮だが、2008年当時は我が子も中学生であり“お抱え家庭教師”の私は、上記のごとくの“我が教育理念”に基づき日々子どもの指導に励んでいた時期であった。


 さて、その後まもなく藤原和博氏はわずか5年間の和田中学の校長職を終えて義務教育現場を去った後、橋下大阪府知事の特別顧問職も経験しているようだ。 (原左都子に言わせてもらうと、“世を騒がせた”という事以外の両人の共通項がよう分からんのだが… “世を騒がせ”て売名した人物が政治にかかわるという短絡的な図式も受け入れ難いしねえ…)
 加えて、藤原氏は教育関連の著書数冊を世に出している模様である。(題名のみ拝見して論評するのも失礼な話だが、その程度の題名の著書ならば原左都子に任せてもらえた方がほよど面白いものが書けるかも、な~~んて勝手に言っていようね~。

 そして2012年1月8日朝日新聞“求人広告欄”に於いて、「僕は『正解主義』と闘う」 との記事をドでかい写真付(一見 さだまさし かと思ったよ!)で公開しているのを原左都子が見かけたという訳だ。
 その記事の内容とは、私に言わせてもらうと特段目新しくもなく今時の教育一般論の範疇を何ら超えていない貧弱なものなのだが、ここでかいつまんで紹介しよう。
 これからの教育とは、もう成長社会が終わったことを心せねばならない。 若い世代の人たちに意識して欲しいのは、親や先生に「言われ続けた通り努力すれば人生は安定する」との考えでは成功ができない時代であるという事だ。 かつては小中高そして大学でそれを叩き込まれてきたが、本来皆にとっての正解などある訳はない。 記憶力が良くて頭の回転が速い人が優秀だという「正解主義」が未だに教育界に蔓延しているのを、何とか僕が崩したい。 若者よ、自分の頭と心で物事を考えよう。

 藤原氏と原左都子はどうも同年の生まれのようだ。
 で、藤原さんて東大卒であられるようだけど、貴方は小中高大学とそんな貧弱な教育をずっと受けて来られたのであろうか???
 過疎地の田舎育ちの私とてその種の教育を受けてきた記憶もあるが、元々天邪鬼で“アウトサイダー的資質”が強靭だった私など、そんな馬鹿げた公教育のお陰で、大いなる“反発エネルギー”を自己の内面に育成しつつ成長して大人になったような気がする。

 藤原さんは記憶力がよくて頭の回転が速かったのだろうが、私も一応そんな子どもだったと自覚している事は認めるよ。 でも私が藤原さんと違うのは、大人になって自立せねばならない段階に達して以降は、“優等生”へったくれの取るに足りない事を前面に出してこの世を渡って来た訳ではないと自己分析するところだ。
 結局、藤原さんとは何だかんだ言いつつもあなた自身の“優等生”気質が未だに抜け去らないからこそ、公立の和田中学で“優等生”を特別扱いするべく“悪あがき”しただけなんじゃないの?  その後大阪の橋下さんになびいたのも、その延長線上に過ぎないように私は捉えるのだが…


 実に失礼な事は承知の上で、繰り返すが藤原氏の「正解主義と闘う」議論とは今となっては陳腐な一般教育論であるとしか言いようがない。 
 私など子どもの頃からずっとその発想の下で自ら勉学に励み、社会人として自立して以降もその観点で後進者達と接して来ているつもりなんだけど…。

20歳で無理して成人しなくていい

2012年01月09日 | 自己実現
 成人の日が間近となったつい先だって、2年後に成人を迎える18歳の我が娘がポツリと私に聞く。

 「成人式って別に出なくてもいいんでしょ?」

 おっと。   (さてはこの子は成人式に出たくないんだな?)と母の私は直感しつつ、
 「形だけの式典なんか私もどっちでもいいと思うけど、晴れ着だけは着ようよ。 既におばあちゃんから“成人前祝”も頂いてるし、20歳の晴れ姿を写真に撮っておばあちゃんに見せてあげようよ。」

 そうなのだ。 娘にとってのおばあちゃん(義母)より、半年前に既に成人の祝いが届いているのだ。
 昨年80歳を迎えた義母曰く、「○○ちゃん(我が娘)の成人のお祝いだけはしてあげたいとずっと思っているんだけど、私の命がいつまで持つか分からないから、気が早いことは承知で今のうちに前祝を渡しておくのでこれで好きにお祝いしてね。」
 いつもながらありがたい事である。  そして受け取った祝儀袋にはある程度立派な振袖をしつらえられそうな額の祝い金が入っていた。


 原左都子も成人式に出席していない事に関しては、おそらく本エッセイ集のバックナンバーで綴っている。

 私の場合は、我が娘とはその事情が大幅に食い違う。
 共通している点は、元々集団嫌いの私も自治体が主宰する成人式典に出席する事に関しては二の次の位置付けだったことだ。 
 ただ、正直なところ当時よりファッション好きの私には振袖を着たい思いが強かった事は否めない。 (長身体型の私に振袖は絶対に似合う!との若気の至りの自負心もあった。 )

 ところが、我が親の考え方が当時の私よりもずっと合理派だったのである。
 母曰く、「たった一度着てお蔵入りさせる振袖を仕立てるのに何十万円も費やすより、そのお金を使ってあなたが今したい事をした方が有意義ではないのか?」
 その母のアドバイスにより、私は19歳の夏休み期間中に米国に1ヶ月間短期留学することと相成った。
 それはそれで充実した経験だったとして、その後が辛かった…。  冬に向かうにつれ、周囲の女友達の皆が成人式に着る振袖の話で持ち切りとなる。 この私とてどうしても振袖が欲しいのならば、既に自分で貯めた預金がそれを立派にしつらえられる程の額に達していたのだからそれで振袖を作ればよかった、と後に考察する事は可能である。 ただやはり当時の時代背景として、実家で親と同居している以上親の考えを尊重するべきとの発想にどうしてもなってしまうのだ。
 結局私は成人の日に振袖を着る事もなく、自治体の成人式にも参加しないとの選択をせざるを得なかった…

 その後新卒で民間企業に就職するため上京した後も、成人の日に振袖を着ていないという“敗北感”のような無念さをずっと引きずり続けていた。
 そんな私の思いを知ってか知らずか、郷里の母がその“お詫びの思い”で後々私のために数々の和服を仕立ててくれた。 (それが現在の我が家の和ダンスに手を通される事も無く満杯状態である事に関してはバックナンバーで綴っている。)

 社会人として一人前の給与を得ていた私は、何度か振袖を仕立てるために都心の呉服屋を訪れている。 独身が長かった私はそれを晩婚直前まで繰り返した。
 結論としては、たとえ独身で振袖が似合う体型を保持していようとも、それを着る機会がない現実を冷静に鑑みて、いくら呉服屋から勧められても振袖を仕立てることは断念して現在に至っている。

 上記のごとくの私自身の成人の日にまつわる教訓として言いたいのは、親とは(経済力が許すのならば)世間の祝い事に関しては自分の歪んだポリシーを勝手に未熟な子供に押付けるのではなく、一応世の慣習に従って子どもを導くべきなのではないかと言うことである。


 そんな原左都子としては、我が娘が2年後に20歳を迎えた暁に自治体が主催する(意味不明の)成人式典に出席するかどうかは本人の好きにすればよいとの思いには変わりはない。
 だがどうしても、振袖だけは親の責任として仕立てて着せてやりたいのだ。 (親馬鹿ながら、きっと我が娘にも振袖姿が映えることと既に想像がついているしね…


 朝日新聞1月7日別刷「be」“between”の今回の内容はこの時期に相応しく 「成人式は必要だと思う?」 だった。
 その記事の中で、成人式に出席していないとの回答が40%にも上っている現状に力づけられると共に、記事の隅にある見識者のご意見に同意する原左都子である。

 「一人前は年齢じゃない」 と題する、見識者であられる大学教授の論評をこの記事の最後に紹介しよう。

 現在市町村等の自治体毎に開催されている成人式の実態を、村落共同体における伝統的な通過儀礼を引き継いでいると捉える視点もあるが、現在の成人式とはそれとは「異質なもの」、とこの論評の主である国立民族学博物館の近藤教授は捉えられているようだ。 
 かつての“一人前”とは年齢で区切るのではなく、農作業や布を織る能力が一定レベルに達した者を指した。 その能力を有するものには共同体で生きる権利を与えると共に、その作業を支える義務も課された。 ところが今の成人には権利こそあれども義務がない。
 大人になることとは試練の連続である。 それを踏まえることが成人となる通過儀式であるはずだ。 
 今の時代の成人式とは、「芸能人のショーやテーマパークへの招待など、成人を喜ばす事に躍起になっていて本末転倒だ」 
 今の時代の(厳しい)就職活動とは本来の通過儀礼に近いかもしれない。 でもそれに打ち勝っても長続きしないのならば、一人前とは到底言い難い。


 原左都子も、この大学教授のご見解にまったく同感である。

 自治体が実施する“成人を軽薄な手段で喜ばせて静かにさせよう”との現在の“子どもだまし”意図の成人式になど、良識ある20歳が出向く必要は何もないであろう。

 それよりも、自分が今後欲する世界において能力を高め続けられてこそいずれ自然と「成人」を迎えられる事を視野に入れ、今後若者達はまだまだ精進するべきである。

 人間とは、人(親や自治体や国家を含めた他者)に言われるがままに行動したところで決して成人できる代物ではない。 
 年齢にかかわらず、自分自身の力で人生を培っていくものであるぞ!