原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「あの人、あの細足でよくぞランニング大会に出場してるわねえ~」

2018年11月12日 | 自己実現
 (写真は、昨日原左都子が出場した“市民ランニング大会”の「完走証」。)


 いえいえ決して昨日のランニング大会会場にて、上記表題の言葉を投げかけられた訳ではない。

 ただ数年前に出場した大会で沿道より我が走る姿を見て、「うわ~、足が細い!!」なる咄嗟の感想を述べた女性ギャラリーがいたのだ。
 これがランニング大会ではない場であれば、我が耳にはプラスの意味合いに響いたことであろう。
 何故ならば特にファッション分野に於いて、私はこの“足の細さ”で絶対的に得をし続けている実感がある故だ。 

 ところが殊、ランニング大会会場内でこの言葉が発せられると…
 市民ランナーの私にとっては冒頭表題のごとく、「あの人、あの細足でよくぞまあランニング大会に出てるわねえ~~」 なる蔑んだマイナスの意味合いで“足が細い”事実を認識せざるを得ないのだ。

 と言うのも既に10年近くの期間に渡り、年に2度のペースで市民ランニング大会に出場し続けていると。
 必ずや会場にはプロ(あるいは“箱根駅伝出場等々のセミプロ)もどきの高速ランナー達が“練習の場”として出場している。
 男女を問わずそれら高速ランナー達の「身体」を観察拝見し続けるに、特に“足の筋肉差”が歴然なのだ!

 いやはや一番最初に出場したランニング大会にて既にその“筋肉格差”に愕然とした私は、「やはり何処の世界でもプロにはどうあがいても一生叶わない…」宿命を痛い程実感させられている……


 さてここで。 
 何故我が足はこれ程までに“筋肉”に恵まれなかったのかに関して記した、当エッセイ集3年程前に公開のバックナンバーを振り返らせて頂こう。

 私には現在“50の手習い”で始めたランニング趣味がある事を、時折「原左都子エッセイ集」内で披露させて頂いている。
 何分、小学生時代には「逆上がり」にすら困難した“運動劣等生”の私だ。
 あの屈辱には懲り懲りの実体験を幼き心に学校現場より我が脳内に刻み付けられた私だが、その体験から、後後好き好んで体育会系の部活になど所属するはずは断じてあり得ないと考えていた。  我が人生に於いては、おそらく「スポーツ」なる分野とは無縁の人生を歩むものと、過去の歪んだ学校教育より信じさせられていた私だ。
 その一方、「音楽」好きが高じてそちらの分野よりダンスの趣味が芽生えた。
 20代初頭に上京した私がディスコに興じない訳がなかったし、その後も自分自身が都内に探し当てたプロ経営の「ジャズダンススタジオ」にて、その鍛錬にも一時励んだ。
 ところが、基礎体力及び身体の柔軟力に欠ける私は、プロ育成を主柱としている当該スタジオにて我が趣味を貫くのは不能と思い知った。 (ただ参考だが、ダンス部門とは昨今を問わず舞台映えするにはダンサーの「体型」こそが命である。 私の体型が主催者の目に留まっていた事を理由にダンススタジオに一旦引き止められたことを、自慢話として付け加えておこう。)
 その後20数年の年月が経過し、私は今後老齢に移り行くに際し長寿を目指すには身体を鍛えねばならないとの使命感を抱き始めた。 
 その使命を実行するべく民間ジム会員として通い始め、その流れで開始したのが「ランニング」である。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 それでも、ランニング素人にして「素人ランニング大会」に出場する実態とは、まさに標題が物語っているような“劣等感負荷”を出場の都度私は感じさせられる事実でもある……。

 要するにプロから言わせれば、「お前など“場違い”だよ」との事ではなかろうか?

 その通り! と私も実感出来ているよ。
 ここで素人ランナーにとって自身の弁護に役立つのは、自分が現在紡いでいる(あるいは過去に於いて紡い来た)「専門力」ではなかろうか?
 ランニング大会では悔しい思いをさせられ続けているが、こんなにヘボい私にも「実は別の専門があるんだぞ!」と(水面下で誇れる)分野がある事こそが、ド素人にしてのあくまでも“趣味範疇”のランニング大会連続出場を支えているような感覚もある。


 などと貧相な“能書き”を垂れるよりも、実際ランニング大会で素人各自が完走出来る事実こそが爽快であることには間違いないだろう。
  
 昨日の市民ランニング大会で共にゴールを目指し完走した素人市民ランナーの皆さんへ。
 その達成感が紡ぐ今後の輝かしき人生へのエールを贈りたいものだ!

左都子コレクション - ヘアウィッグ編 -

2018年11月10日 | 雑記
 (写真は、私が近年特注でオーダーメイドしたり購入したりして所有しているヘアウィッグの一部。)


 原左都子は決して“猟奇趣味”という訳ではない。

 では何故、数多くのヘアウィッグを所有しているのかと言えば。
 私にとってヘアウィッグは、決してコレクションではなく必需品、より正確に表現するならば“身体の一部”である故だ。

 上記写真のうち、前列中央が現在現役で使用しているウィッグ。 その後方左側が、その前に現役で使用していたウィッグである。
 後列右は、後列左のウィッグをオーダーした際にほぼ同時に作成したウィッグだが、同じように頭の寸法を測って同じ工程で手作りしても、出来上がって来るウィッグの個体差は激しものがあるのが実情だ。 との理由により、悲しいかな使用せずしてお蔵入りしているウィッグである。

 前列左右は、つい最近ネット通販にて購入した市販のウィッグ。
 何故これら複数の市販ウィッグを購入するに至ったのかといえば、現在使用中のオーダーメイドウィッグがそろそろ寿命を迎えるからに他ならない。

 オーダーメイドの場合、どうしても高額とならざるを得ない。 (上記写真の我がオーダーウィッグは一枚に付き数十万円の価格である。) しかも先程も記したが、オーダーと言えども完成品の個体差が激しく必ずや気に入る訳ではない。 一応の保証期間がありその期間内は調整が出来たり、最悪の場合“作り替え”も可能ではある。 ただし長年幾度もウィッグをオーダーしている身として、幾度も“作り替え”を要求するのはさすがに気が引けるものだ…
 そのような“オーダーウィッグ”の欠点を考慮した場合、もしも市販のウィッグで事が済むのならばとの考えで、後学のためにこれらを買い求めたとの訳である。
 

 既に23年来ウィッグのお世話になっている身だが。
 上記写真は、あくまでも近年買い求めたウィッグ群であり、自宅押し入れの中には1枚に付き数十万円かけたオーダーウィッグが7枚程保存されている。 我が身体の一部として確実にその役目を果たし老朽化したウィッグは既に廃棄処分としており、要するに押し入れにお蔵入りしているウィッグとは“無駄な出費の産物”と言う訳だ…  

 
 そもそも何故、私はウィッグを頼らずしてこの世を渡れないのかに関してだが。

 何度かその実情を、当該エッセイ集バックナンバーにて公開している。
 ただし、私は自分や家族の病気・障害等々弱点に関し、大々的にブログで公開する事を好まない主義であることに関してもバックナンバーにて述べて来ている。

 それ故に、今回も大袈裟に我が過去の癌罹患について述べることは控えるが。
 要するに、過去に於いて頭部に「皮膚癌」を患いその摘出及び植皮手術を受けたがために、一生に渡ってその手術痕を抱えて生きる運命下にあると言う訳だ。

 そんな私に、我が娘が素敵な“愛称”をプレゼントしてくれた。
 それは「河童(かっぱ)」なのだが、確かに我が頭にはお皿がある!(頭頂部やや左寄りだが)
 娘のその“感性”に感激して、その後その「かっぱ」をひっくり返し「パッカ」を我が愛称として自宅で利用し続けている。 (参考だが、私が皮膚癌に罹患したのが40歳時点、娘が物心つく前から私は既に“河童頭”だった。)
 それ程に、我が過去に於ける“癌罹患”は現在に於いてはプラスに機能している。


 とは言えども…。

 ウィッグに頼る人生とは、まずカネがかかる…。 
 今後100歳まで生きるとして、ずっとオーダーウィッグを使用し続けた場合、おそらく後数百万円の出費となろう。 (そんな事を家族の世話になる訳にもいかず、それを我が将来必需費用として計算し既に自力貯蓄済みでもあるのだが。)

 それよりも何よりも、外出時にいちいちウィッグを被らねばならないその作業が鬱陶しいし、夏は暑いし、風が強い日の対応も実に大変だ。

 温泉旅行など行けたものではない。(私の場合、元々その趣味が無いのだが、認知症状ある義母の温泉旅行付き合いには実に難儀した。
 やむを得ずガーゼ頭のまま義母を引き連れ温泉へ向かう途中、同じく温泉へ向かう我がガーゼ頭を見た高齢域男性から、「どうしたの、怪我でもしたの?」との優しい問いかけだ。 「いえ、単に過去の手術痕を隠しているだけです」と応えると、「そんなの気にしなくていいよ、そのまま温泉に入ればいいよ!」との何とも心優しい回答だった。 
 そうは言われても…  女湯の宿命とは厳しいものがあることなど自明の理だったものだ。


 つい最近、ネット販売にて買い求めたウィッグに関する我が感想だが。

 23年来ずっとオーダーウィッグに依存して来た私の当初の感想は、現在の市販ウィッグが実によく作られているとの事だ。
 その髪質など一見すると、オーダーウィッグよりも優れている感覚すら抱かされる。
 ただし実際に装着せねば、ウィッグの価値とは分からないものだ。

 それを試みたところ、やはり市販ウィッグならではの問題点がある事実が否めない…

 やはり我が残された運命とは。
 20年来お世話になっている大手かつら企業へ近々出向き、次なるオーダーウィッグを作り直すしか手立てが打てないような気もする… 

 病気を克服して生き延びても、カネはかかるなあ、なる我が感想で今回のエッセイを締めくくろう…
 

塩を作る

2018年11月08日 | 雑記
 実は、私は塩の産地の出身だ。

 ただし、私が産まれた頃には既に“塩づくり”は行われていなかったかもしれない。??
 我が薄れゆく脳内記憶として、市内の海岸に程近い場所に「塩の博物館」らしき施設があり、そこを小学校の遠足や校外学習の形で何度か訪れた思い出残影があるのだ。 
 博物館とは言えども、決して今現在のような立派な施設であるはずもない。 薄暗い室内に、塩づくりをしている人物模型や使用した器具等々が展示されていて、子供心に“不気味さ”すら感じたものだ。

 先程、ネット検索してみると。
 我が出身地では、伝統ある“塩づくり”を受け継いでいる企業が存在するようだ!
 そのネット情報を、以下に引用しよう。

 鳴門の塩づくりの歴史は長く、その始まりは今から約400年前の慶長4年といわれています。 潮の流れが早く塩分濃度も高い清澄な海水に恵まれた鳴門は昔から塩づくりに適した環境であり、50年ほど前まで市内には広大な塩田風景が広がっていました。
 その塩田も今では製塩技術の進歩によって姿を消してしまいましたが、塩づくりの伝統は現在も鳴門塩業によって受け継がれています。 
 製塩方法は変わっても、従業員一人一人の塩づくりに対する真摯な姿勢、伝統を守っていきたいという想いは今も昔も変わりません。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)

 一旦、私見だが。
 へえ、そうだったんだ! 今も尚、鳴門の塩づくりは後世へ受け継がれていたのだ。 それは実に素晴らしい事実だ!
 今度帰省した折には、工場見学でもさせて頂きたいものだ。
 加えて、鳴門の塩づくりは50年程前まで行われていたとのこと。 もしかしたら我が小学生時代に、(生産規模が大幅に縮小されていた事であろうと想像するが)実際に塩を作っている場面を見たのかもしれない! そう思い返すとそんな記憶が蘇りそうな気もする…。


 本日、(トランプ大統領に関連する“米国議会ねじれ”現象論評は専門家に任せるとして)何故“塩づくり”の話題をエッセイとして取り上げたかと言うと。

 言わずと知れているが、現在NHK連続テレビ小説「まんぷく」内で、“塩づくり”が取り上げられ始めたからに他ならない。
 その情報に関しても、ネットより引用しよう。
 安藤サクラ主演のNHK連続テレビ小説「まんぷく」は、11月5日から第6週「お塩を作るんですか!?」に入る。 福子たちは、克子の家を出て大阪南部の泉大津に引っ越す。 萬平は、旧陸軍が使っていたという倉庫から大量の鉄板を発見して……。
 戦後の混乱期で世の中に塩が足りないと知ったことをきっかけに、鉄板を使った塩作りを始めようと計画した萬平。 居候の神部は、従業員を集めようと奔走する。 連れてきたのは、14人もの若い男たち。 一緒に暮らす鈴の不満をよそに、福子はめいっ子のタカと一緒に、突然始まった集団共同生活を切り盛りして……。
 (以上、再度ネット情報より引用。)


 ここで、「塩」及び「塩づくり」に関するウィキペディア情報を引用させていただこう。

 (しお)は、塩化ナトリウムを主な成分とし、海水の乾燥・岩塩の採掘によって生産される物質。 塩味をつける調味料とし、また保存(塩漬け・塩蔵)などの目的で食品に使用されるほか、ソーダ工業用・融氷雪用・水処理設備の一種の軟化器に使われるイオン交換樹脂の再生などにも使用される。
 日本の塩事業法にあっては、「塩化ナトリウムの含有量が100分の40以上の固形物」と定義される(塩事業法2条1項)。
 塩は大きく分けて以下の4つの原材料から作られる。
 〇 岩塩
 岩塩を採掘する。  主にヨーロッパ・北アメリカにて行われる。岩塩はその昔、海であった土地が地殻変動により地中に埋まり海水の塩分が結晶化し地層となったものである。 岩塩の製法は溶解採掘法と、乾式採掘法に分かれる。 溶解採掘法は一度水に溶かし、煮詰めて塩を取り出す。不純物が少なく欧米では食用として一般的に用いられる製法である。一方、乾式採掘は直接掘り出す方法で、不純物が混じりやすく、また硬いので食用には適さない。
 〇 海塩(天日塩など)
 塩田において天日製塩法で作る。 西ヨーロッパ、メキシコやオーストラリアなど。 海塩は主に天日製塩法で作られる。 この製塩法は、海水を塩田に引き込み、1〜2年程度の期間で塩田内の細分化された濃縮池を巡回しながら太陽と風で海水を濃縮していき採塩池で結晶化した塩を収穫する方法である(メキシコやオーストラリア・ヨーロッパの沿岸地域に多い)。 尚、米国の一部の州や韓国では好塩菌混入などの問題から天日塩の直接の食用使用を制限し禁止している。
 〇 海水
 海水をいったん濃縮した後に煮詰める。イオン交換膜製塩法・揚浜式製塩法・瞬間結晶など。
   ( 中略。)
 日本では岩塩としての資源がなく、固まった塩資源は採れない。 また、年間降水量も世界平均の2倍であることから日照時間が比較的長い瀬戸内地方や能登半島など、一部地域以外は塩田に不向きである。 このため、塩を作るにはもっぱら海水を煮詰めて作られる。 これは、天日干しに比べて、燃料や道具などが必要になるためコストがかかり、大規模な製塩には向かない方法である。そのため自給率は食用塩が85%であるが、工業用を含めると全消費量の85%を輸入に頼っている。
 海水から製塩するには、直接海水を煮詰めて食塩を得るより、一度、濃度の高い塩水を作ってから煮詰めたほうが効率が良い。 この濃い塩水を「鹹水(かんすい)」と言い、この作業を「採鹹(さいかん)」、また煮詰める作業を「煎熬(せんごう)」という。
   ( 中略 )
 塩の製造販売の自由化以降は日本各地で流下式といった過去に行われていた製法が復刻され、水分を瞬間的に蒸発させる加熱噴霧といった新しい製法で作られる塩も流通している。
 JAS法に基づく必要表示事項の表示(枠内表示)について、「名称」「原材料名」の記載を標準化し、消費者にわかりやすく表示する。
 (以上、ウィキペディア情報より一部を引用したもの。)


 今回のNHK朝ドラは、(前回の作品があまりにも手抜の駄作だった故かもしれないが)、随分と丁寧に制作しているとの感覚が私にはある。

 現在放映中の“塩づくり”に関しても、萬平氏が取り組む「海水を用いた製造過程」を実に丁寧に描きつつ、ドラマを進めている事実に感銘を受ける。

 どうかこのままNHK朝ドラは決して制作を“手抜き”することなくして、ドラマ展開を続行して欲しいものだ。
 福子夫婦の行く末はともかく。

 “塩業”とゆかりがある地に生を受けた原左都子としては、萬平の“塩づくり”の成功or失敗?の決着”をとりあえずこの目でしかと見届けたいものだ!

認知症者の意外な心理

2018年11月06日 | 医学・医療・介護
 (写真は、昨日介護施設に暮らす義母を訪問した後に立ち寄った回転寿司屋で、“一杯グイっとやった”冷酒。)


 昨日、高齢者有料介護施設に住む義母を亭主と共に訪問した。

 義母に会うのは、先月私が耳鼻科付添いをして以降ほぼ1か月ぶりの事だ。

 その間にも我々保証人には、義母の認知症状故に頭を悩ませられる出来事が多数押し寄せて来ている。

 その一つである、補聴器に関してだが。
 9月に新調した補聴器が10月の1カ月点検後も聞こえない、との義母からの電話を幾度も受けた。
 ただこれに関しては、既に上記1カ月点検時に補聴器担当者氏(例のギリシャ彫刻張りイケメン氏だが)と私との間で合意が叶っている。 要するに正確に言えば補聴器が聞こえないのではなく、義母の認知症状故に“補聴器の扱い方がいつまで経ってもトンチンカン”との状況下にあるという事だ。
 そのため現在の我々を含む義母周囲介護者達の課題とは、実際補聴器が“聞こえない”と訴える義母の「苦悩」に周囲が如何に寄り添うかとの事実こそが第一義である。
 この件に関し施設側も至って協力的で、少なくとも補聴器の定期的な電池交換に関して補助体制を整えてくれるとの嬉しい回答を得た。

 その他にも義母に関する難題は数多いのだが……


 それでも義母にとって一番嬉しいのは、我々夫婦の訪問である事には間違いなさそうだ。
 いつもの事だが、我々二人が揃って義母を訪問すると満面の笑みで迎えてくれる。

 その義母の本心の笑顔に応えるべく、あれこれと義母が喜びそうな話題を提供するのだが…
 残念ながら補聴器を付けても耳が聞こえない義母に、話題の詳細が通じない。 そんな事に6年来慣れ切っているこちら側も、今となっては少しも動じる事も無い。 別に大して重要でも無い用件に関しては、聞こえなくてもよいとの夫婦間の暗黙同意も出来ている。


 そんな中、昨日認知症状がある義母が、私が発した“ある話題”に心底興味を呈したのだ。
 その話題とは、(既に当該エッセイ集にて公開済みの)我が米国の実姉に関する事案だったのだが。

 参考だが。
 私がいつも義母の施設を訪れる都度、真っ先に義母が私に尋ねる決まり文句とは、「郷里のお母さんはご無事ですか?」 である。
 その義母の内面心理の程は痛い程理解している。 要するに義母としては、我が郷里の実母が元気ならば私が郷里へ行かずに済み、自分が嫁である私を独占出来る!、との安心感を得られるのだ。
 それが証拠に、遠い過去に私が実母の世話に郷里へ旅立つと義母に告げるなり、「私はどうすればいいの…」と電話口で泣かれる事態が幾度となく発生している。 それを教訓としてその後は我々夫婦間の同意により、実際私が郷里を訪れる際にもそれを義母には決して告げず、留守中義母から電話があった場合にも「買い物に行っている」事として、ひた隠して来ているのだが…

 さて、昨日も義母が私に真っ先に問うたのが、「郷里のお母さんはお元気ですか?」だった。
 いつも通り、「はい」で済ませる事も可能だったのだが。
 何だかこれでは何らの会話の充実も無い、と判断した私が、敢えて米国の姉の話題を義母に持ち出したのだ。 (この話題を承知して下さっている読者の方が多いと勝手に判断し、この場での反復は避けるが。)

 そうしたところ、耳が聞こえにくはずの義母がこの話題に大いなる興味を抱いた様子で、私のすぐ隣に座るではないか!  
 そして、私に尋ねるには。 「えーー。 〇子さん(私の事)は郷里のお実母さんから米国のお姉さんの面倒もみて欲しいと言われたの!?!」  
 この正確過ぎる義母の問いかけに私は仰天した!  「その通りなのですよ、お義母さん! そんな理不尽な話は無いでしょ!」 と応えると、何と義母は。
 「〇子さん(私の事)は、現在私と郷里のお実母さんの面倒も見ているのに、その上、アメリカのお姉さんの面倒もみるとなると大変よねえ。」と十分に私の負担話を理解してくれるのだ...

 これはまあ、義母の“私を独占したい”との感情に基づいている発言であることを重々承知しつつ…
 私側もこれ幸いと、晩婚後特に“経済面”で多大な貢献を頂いた義母にこれまでの感謝の思いを述べると共に。  「私は晩婚後は絶対的に“原家”の人間であり、今後も原家を優先する人生を歩む所存であります!」との思いを、認知症状がある義母相手に大声で熱く語るに至ったのだ!
 それで正解だったと、今現在も実感している。


 その我が「私は原家の人間です!」なる決意表明を傍で聞いていた亭主も、まんざらでは無かった様子だ。

 今夜は寿司でも食べようか? との亭主の提案により、施設からの帰り道に回転寿司屋に立ち寄った。
 そこで飲んだ冒頭写真の冷酒と寿司が、何とも美味しかったこと!! 

怒られて、嬉しいか!??

2018年11月04日 | 人間関係
 本日は娘の休日でもあり、自宅リビングにて先程まで娘との団欒をゆったりと楽しんだ。 


 私の方は本日付の朝日新聞を広げる傍ら、娘との話題が12年前のエジプト・ギリシャ方面旅行に及んだ。
 当時娘は中学2年生、おそらく13歳だった。
 生まれ持っての事情故に幼少の頃より複数の原因不明の奇病を未だ引きずっていた頃だが、旅行前に懸念した通り、旅先のギリシャで奇病の一つである「高熱不明熱」を発症してしまった。
 その結果、ギリシャにて一家3人で丸2日をホテルの部屋で過ごす羽目となり、当日の予定だった地中海クルーズには行きそびれてしまった。

 その娘の不意の病状に関しては、親でありかつ元医学関係者でもある私としては娘幼少時代より既に慣れている事象であり、“想定内”の出来事だった。
 ところがそれに一番うろたえたのが、旅の添乗員氏だ。
 異常事態に動揺しつつ私に問うには、「旅行保険には入っていますね!?」
 私が応えて、「いいえ、入っていませんが。」

 ここで、添乗員氏の怒りが心頭に達する。
 「何ですって!? 子どもを連れての海外旅行に際し保険に入っていないのですか? 親として何を考えているのですか?! 保険にも入っていずして旅行社として責任は持てませんよ!」
 この言い分に私こそが驚きつつ、「別に旅行会社に責任を持ってくれとは一言も言っていませんよ。 ただ本日の地中海クルーズには一家で参加せず娘をホテルで休ませたい、との希望を伝えに来ただけです。 娘の病状に関しては、娘幼少の頃より親である私自身が十分に把握しております。 2日安静にして休ませたなら平熱に戻ることを保障します。 エジプトに戻る日までには必ずや娘は回復し、皆さんと一緒に飛行機に乗せますので安心して下さい。」

 さてと親である私の予言(診断)通り、娘の熱は2日目の朝には平熱に下がった。 
 その日の午後のエジプトへの戻り便集合時間までに、午前中は娘自身の希望もあり、旅の第一目的だった“プラトンのアカデメイア”訪問も済ませて集合場所へ行き、その後エジプトまでのフライトを無事こなした。

 
 何故本日この話題をエッセイに取り上げたのかに関しては、娘との談話中に偶然にも私が開いていた朝日新聞ページの話題が「忘れられない『怒られた思い出』は?」 だったからに他ならない。

 いやはや、あのエジプト・ギリシャ旅行の際に、何で私が添乗員氏に怒られねばならなかったのかを思い起こしたのだ。
 ただ添乗員氏にしてみれば、自分が添乗している旅行者の一人が高熱を出してホテルで寝込んだ事態にうろたえるのは当たり前の事だろう。
 むしろ私側こそがもっとその職業人としての意識の高さを褒め称えるべきかもしれないと、今思い起こしたりもする。
 その後のエジプトにての旅道中に、高熱を出してホテルで寝込んだ娘を不憫に思って下さった添乗員氏より、娘にプレゼントを頂いたりして親の私も感涙ものだった… 


 朝日新聞の「忘れられない『怒られた思い出』は?」 に話題を戻すが。

 この頑固者、かつ、幼少の頃より客観力があった(?)思い出記憶が数多い私にとって、他者から「怒られる」事態とは屈辱でしかあり得ない。
 と言うよりも、実際客観力に優れていた私は、「怒られる」との経験を幼少時代にせずして大人になったような感覚すらある。

 大人になって以降は、「怒られる」と言うよりも「怒り始めた相手に喧嘩を売った(反論した)」経験はあるかもしれない。 (と言うのも、怒られ慣れていない人間にとっては、自分に対して怒ってくる奴ほど鬱陶しいものは無い故だ。)
 その我が「怒り始めた相手に喧嘩を売り返した」経験に関しては、本エッセイ集バックナンバーにて複数公開しているため、ご参照下されば幸いだ。 (「売られた喧嘩、受けて立ちます!」等々… )

 
 ところで上記朝日新聞記事によれば、「厳しくも温かい あの一喝」なる別題名が証明している通り、他者から怒られた事実をプラスに転じている読者が多い様子だ。

 何と言うのか、おめでたい世の中というのか、私に言わせてもらうと、こんな混とんとした時代背景に於いてもっと「自己を確立せよ!!」と叫びたくもなるのだが。


 このエッセイの最後に、この話題を出すのが適切かどうかは度外視して…。

 内戦下のシリアで拘束されていたフリージャーナリストの安田純平氏が、帰国後の長~~い記者会見内で一応の「謝罪」を述べておられる。
 私見としてはそれを「当然の事」と捉えつつ、安田氏の行動を単に「怒る」との行為がどうなのかとの自問に苦しみつつもある。
 この議論に関しては、世の議論が深まった暁に今一度私論を述べたいと考慮中だが…。


 それにしても他者から感情的に怒られて自らの非を安易に認める連中とは、私としてはアンビリーバブルであり、今後共付き合いたく無いなあ。