礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ドイツの地名を口走りながら発狂してしまった

2019-03-04 03:27:26 | コラムと名言

◎ドイツの地名を口走りながら発狂してしまった

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一八回目で、〔岡山県〕の項を紹介する。

〔岡 山 県〕
 岡山県は多士済々である。嶋村知章〈トモアキ〉氏は、明治廿九年〔一八八六〕一月五日、岡山県上道〈ジョウトウ〉郡宇野村東川原の豪家に生れた。少年時代を何不自由なく育ち、大正八年〔一九一九〕には慶応義塾理財科を卒業した。あつぱれ、実業家の卵として、将来の希望に燃えながら、名古屋の某会社に就職した。このままで進んだら、中京の実業界にその人ありと知られるまでになつたらう。しかし、天はこの人を土俗学者・方言学者たらしむべく、苛酷な運命を選んで授けた。生活の転機は、大正十三年〔一九二四〕、第一回の喀血の時を以て始まる。身は名古屋の病院の一室にありながら、心は遠く故郷岡山に飛んだ。懐しい父母や友人と、その幼時を語り暮した岡山訛、それを思出しては紙片に書き附ける事によつて、病床のつれづれを慰めた。帰郷後の嶋村氏は、もはや昔の嶋村氏ではなかつた。病院生活数ケ月の間に、経済人嶋村は死んで、方言学者嶋村が誕生したのである。その頃岡山市では桂又三郎氏が土俗雑誌「あく趣味」を刊行していた。嶋村氏は忽ち熱心な同人となつた。嶋村氏と桂氏との交情は、古の管仲鮑叔を凌ぎ、一日として会はざるはなく、会へば必ず土俗・方言を談じ、世間話には 一言も及ばなかつた。ある時は両人が一つの題について採集競争をなし、雨の降る中を傘を差して歩廻つた事もあつた。嶋村氏が田舎町の家を一軒々々覗いて、門守【かどまも】りを写生して歩いて居るのを巡査に怪しまれ、百方弁解したが聞かれず、一夜を暗い所に過ごしたといふ逸話もこの頃の事であつた。ある時は漁舟に身を託して瀬戸内海の島々に奇習異俗を探り、ある時は、登山服に身を堅めて、山陽・山陰の国境に古俗を尋ねた。耳に聞く所必ず之を記し、目に見る所必ず之をスケッチした。その報告は中央・地方の土俗雑誌に花と咲いた。嶋村君の凝り性は、方言研究に於て遺憾なく発揮された。一篇の方言文法を物さんとするや、山田〔孝雄〕博士の大著より、高等女学校の文法教科書に至るまで、渉猟して洩さなかった。惜しむべし、天この人に年を籍さず、昭和五年〔一九三〇〕九月十六日、脳膜炎を起して急逝した。享年三十六。枕頭には、生前、愛読して措かなかった正岡子規の「病床六尺」が、ダーリヤの花と共にあつた。没後六年、遺稿「岡山方言」は、盟友桂氏の手によつて、菊判三一八頁の大著となつて公刊された。
 佐藤清明氏は明治三十八年〔一九〇五〕、岡山県に生れた。幼にして頴悟。中学卒業後、独学を以て、博物科の文検〔文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験〕にパスし、二十歳にして、福岡県小倉中学の教師となり、自分と同年輩の生徒に博物を教へた。しかし、才子多病、問もなく腹膜炎を起して、郷里に静養すること彐年、この間に方言研究は芽生えた。同君は岡山県のみを以て足れりとせず、日本内地はおろか、遠く、琉球・台湾・朝鮮の動植物方言を蒐集せん事を期し、照会状を発する事数千余通、回答亦数百通に達して居る。「国語教育」方言研究号に発表した「全国メダカ方言語彙」は五百四十語に上り、この方面での最高レコードである。単行本には、「岡山県植物方言辞典」「岡山県動物方言辞典」その他、動植物に関する著述が多い。その文章は軽妙洒脱、自ら〈オノズカラ〉一家の風格を成してゐる。昭和の方言学が多くの秀才と名文家とを抱擁するのは幸福である。
 佐藤氏を方言研究に赴かせた動機は牧瀬貞一郎氏の感化にあるといふ。牧瀬氏は日本地名学の建設を志して、全国の町村役場に照会状を飛ばして、地名と地形方言との報告を求めた。山なす報告書と地図との中に埋まつて、それを整理して居る内に、精神に異状を呈し、ドイツの地名を口走りながら、あはれ、発狂してしまつた。これは最も極端な稀有の例である。しかし、方言学には、人を狂気に近いまでに昂奮させる力は確〈タシカ〉にあると思ふ。それはこれまで述べ来つた〈キタッタ〉多くの人人の常軌を逸した熱狂ぷりを思合せるならば、うなづかれやう。
 昭和四年〔一九二九〕頃、毎号方言を掲載する雑誌と言へば、「旅と伝説」と「岡山文化資料」としか無かつた。「岡山文化資料」(旧名、あく趣味)は桂又三郎氏の編輯発行する所である。同氏はこの外「方言叢書」を発行し、既に十冊を出した。この外にも、隠れたる文献や稿本を発行したものは多い。しかし、氏自身の著と言へば、「岡山動植物方言図譜」以外に無いのは物足りない。他は、編輯又は増補と言ふべきものである。
 この外、岡山県には、時実黙水・岡秀俊・岡崎忠志・佐伯隆治の諸氏がある。又、随筆家として有名な内田百間氏に岡山市方言集の稿本があり、その一部は雑誌「方言」に発表されて居る。同氏の採集は、今から二十余年前の大正三、四年〔一九一四、一九一五〕に始まるといふから古い事である。
 岡山県には、これ程方言集が多いに拘らず、みな単語集ばかりで、文法に関しては今尚資料の不足を嘆じなければならないのは大きな皮肉である。

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