礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

校長先生を殴って学校を辞めた梅林新市先生

2019-03-09 00:07:00 | コラムと名言

◎校長先生を殴って学校を辞めた梅林新市先生

 橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)を紹介している途中だが、昨日、〔福岡県〕の項に出てきた梅林新市という方言研究者について、補足したいことある。
 昨日も少し触れたが、梅林新市は、俳優の米倉斉加年(よねくら・まさかね)さんが小学生だった時の恩師だった。米倉さんの著『いま、普通に生きる』(新日本出版社、二〇〇六)によれば、梅林新市は、米倉さんが小学校一年生から三年生までのあいだ、その担任だったという。なお、米倉さんが、小学校に入学したときから、尋常小学校は、「国民学校」と呼ばれるようになった。米倉さんが通ったのは、福岡市の警固〈ケゴ〉国民学校である。
 米倉さんによれば、梅林先生から、多くの民話を聞かされたという。最初に聞いたのが「耳なし芳一」で、その夜は、こわくて便所にゆけなくなったそうである。そのほか、筑後川に伝わる河童の話も聞いたという。
 その梅林先生は、米倉さんが三年生のとき、学校を去った。ある朝の朝礼のとき、梅林先生が壇にのぼり、手短に別れの言葉を述べた。そのあと、校長先生が登壇し、梅林先生が去られることを惜しむ言葉を、くどくどと述べた。その校長先生の顔には、なぜか、ベタベタと絆創膏が貼られていたという。子どもたちの間に、梅林先生が校長先生を殴って学校を辞めたというウワサが広がった。――
 この話は、『いま、普通に生きる』の九~一一ページに出ている。この箇所は、グーグル・ブックスで閲覧できるので、参照いただければ幸いである(「梅林新市」で検索してください)。
 梅林先生の思い出は、よほど強烈だったと見え、2010年12月に収録されたインタビューでも、米倉さんは梅林先生のことを語っている。これも、インターネット上で読むことができるが(光村出版のホームページ。これも、「梅林新市」で検索してください)、以下に、その一部を紹介させていただきたい。

――先生との出会いは大きいということですね。
 もう一人、梅林新市先生という方がいらっしゃいます。小学校1年生のときの担任の先生です。この先生が、僕が絵本をかく、もう一つの原点です。
 梅林先生は、よく郷土の民話を話してくださったんです。筑紫に伝わる河童の話も覚えているけれども、いちばん忘れられないのは「耳なし芳一」の話。先生がどうしてこんな怖い話をなさるのか、あのときの僕にはわからなかった。でも、大人になって思いました。日本中が戦時色一色に塗りつぶされ、国のために命を落とすことは美しく清いと美化されていた時代に、先生は「死は恐ろしい。生きよ、生きよ、生き続けよ!」と叫んでおられたのではないかと。恐怖心というのは人間の本能です。逃げたり身を守ったりする行為を生み出す恐怖心は、生きていくためには絶対に必要なものです。田舎の一教師が、あの時代に子どもの方を向いて、「死は恐ろしいんだ」と言い続けていたのではないかと気づいたとき、自分も恐ろしい話を書こうと思ったんです。『多毛留』(偕成社)、『人魚物語』(角川書店)、『おとなになれなかった弟たちに・・・』(偕成社)の「戦争三部作」は、そういう思いが根本にあって生まれました。
 でもね、60歳を過ぎたころ、違うと思ったんです。
――何があったのですか。
 実は、梅林先生は、僕が小学校3年生のころ、突然、学校をお辞めになったんです。お辞めになるときには、手短に別れの言葉を残されただけで、その理由まではお話しにならなかった。でも、僕らの間では、校長先生を殴って辞めたにちがいないということになっていた。当時、毎朝のようにあった朝礼で、校長先生の異常に長い話が終わるまでに、栄養失調だった僕らはバタバタと貧血で倒れていた。梅林先生は、子どもたちがかわいそうだと言って、校長先生を殴って辞めたんだ――同級生たち100人に尋ねたら、100人がそう答えるぐらいの話でした。
 それで、あるとき、新聞に、先生が辞められたときのそのエピソードを書いた。「職員室での出来事について教えてくれた先生はいないし、見た子もいない。事実はそうではないかもしれない。しかし、みんながそう思っている。つまり、梅林先生がわれわれの側にいた先生だったということは真理なのである。」と。事実なんかどうでもいい。子どもたち全員が、自分たちを守ってくれた教師であると思っていることに間違いはないという思いでした。そうしたら、梅林先生の次男であるという方から、手紙が届いたんです。
――思いもよらない展開ですね。お手紙には何が書かれていたのですか。
 手紙には、「米倉さんの話は80%当たっている」というようなことが書かれていました。それから、「あの日の朝のことを忘れません。父は、校長を殴ったから学校を辞めると言いました。米倉さんのおっしゃるとおりです。ただ、米倉さんは、『教壇を去った』とお書きになりましたが、父は隣の学校に移ったのです。しかしながら、半年後、敗戦になったときに、戦争中教師であったことの責任をとると言って教壇を去りました。米倉さんのおっしゃることは、ほぼ当たっております。」と続いていた。そして、長男が陸軍士官学校に入ったとき、梅林先生はたいへん喜ばれていたということも。【以下、略】

 子どもたちからすれば、梅林先生は「自分たちを守ってくれた教師」だったわけだが、梅林先生自身は、戦争中に教師であったことに「責任をとる」必要があると感じ、実際に、教壇を去ったのだという。
 このインタビューで、米倉さんは、「60歳を過ぎたころ、違うと思った」と語っている。「違うと思った」というのは、梅林先生は、本当は、「自分たちを守ってくれた教師」ではなかったという意味のようである。
 実際のところは、わからない。しかし、このインタビュー記事を読んだ私は、梅林先生は、本当はやはり、子どもたちを守ろうとしていた教師だったように思えてならなかった。梅林先生は、子どもたちを守ろうとしていた教師だったからこそ、戦後、責任をとって、教壇を去ったのではなかったか。

*このブログの人気記事 2019・3・9(10位に珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする