◎国家儀礼としての学校儀式(桃井銀平)
このブログではおなじみの桃井銀平さんから、論文の投稿があった。かなり長い論文なので、少しずつ紹介してゆく。本日は、とりあえず、「1,「儀礼(ritual)」として考える」を紹介する。
国家儀礼としての学校儀式-その構造と含意 20120428
この論文は今から7年前に小規模な集会で報告されたものである。この時、他には個別の都立高校の卒入学式についての現場報告、韓国人司祭による日本教団の国旗国歌問題への対応についての報告がおこなわれた。結局、私の論文はこの集会で発表した以外は、狭い範囲に配付しただけになってしまった。このたび礫川氏の好意に甘えて、氏のブログに掲載してもらうことにした。単純な誤記訂正、脱落追記、不鮮明な画像さしかえはしてある。今読み直してみると、再検討しなくてはならない点がいくつかある。特に気になるのは―当時すでに気がついていたことだが―儀礼が<聖なるもの>を<創り出す>という点が十分には強調できていなかったことである。 桃 井 銀 平
【目次】
1,「儀礼(ritual)」として考える
2,2011年3~4月の都立高校の例-某区9校
(1) 卒業式-3月
(2) 入学式-4月
3,使用される象徴について
(1) 日の丸の位置の問題
(2) 「君が代」の歌詞
4,所作-起立して行う敬礼と斉唱
(1) 人以外のものに対するあいさつ
(2) 起立
5,儀礼の含意
(1) 儀礼の空間的・時間的構造の基本
(2) <もの>への賛美と<聖なるもの>の顕現
(3) 国体コスモロジーの表出
国家儀礼としての学校儀式-その構造と含意 20120428 桃 井 銀 平
1,「儀礼(ritual)」として考える
文化人類学者青木保は「儀礼(ritual)」をまず端的に「社会的・文化的に意味を持つ秩序だった形式的行動を指す。」と定義し、「儀式」との用語上の問題を「ほぼ同じ意味に使われる儀式ceremonialという言葉があるが、両者の区別は明確ではなく、ここでは儀礼を全体的な用語として用いる。〔1〕」と整理している。以下、用語としては彼に従って「儀礼」を用いる。
青木によれば主な儀礼には「通過儀礼」「農耕儀礼」「宗教儀礼」「国家儀礼」などがある〔2〕。 学校固有の儀礼の中心である卒業式・入学式は、このうちでは通過儀礼に分類できるものである。しかし、国家の教育政策の下で、卒業式・入学式は単なる通過儀礼とはいえない内実をもつようになった。学習指導要領国旗国歌条項(資料a)にもとづき文部省(文部科学省)と地方教育委員会が権力的に実現してきた卒業式・入学式は、国家儀礼化した通過儀礼ということができるだろう。2003年10月23日の通達(資料b-以下、単に「10.23通達」とする)を画期とする東京都教育委員会の施策は、学校儀礼における戦後教育の解体の<仕上げの始まり>と位置づけられるものといえよう(この「10.23通達」に基づく職務命令の例は資料c(2007年3月のもの))。
「通過儀礼」(rites de passage)という言葉は、狭義には,個人の成長過程にともなって行われる人生儀礼のことを呼び、広義には、ある場所から他の場所への通過や、国王や族長の戴冠や就任(身分の変化)などに際して行われる儀礼も含むもので、ドイツ生れのオランダ系民族学者で、主としてフランスで活躍したファン・ヘネップが初めて用い、1909年に同名の本を出版している〔3〕。 ヘネップがこの語を用いたのは、「ある状態から別の状態へ、ないしはある世界(宇宙的あるいは社会的な)から他の世界への移動に際して行われる儀式上の連続を分類する」ためであって、通過儀礼をさらに「分離儀礼」、「過渡儀礼」、および「統合儀礼」の3段階に分けている〔4〕。文化人類学者V.W.ターナーはそれを受けて、通過儀礼の「分離separation」「周辺margin」「再統合aggregation」という3段階の内の中間段階の人間の基本的属性を「リミナリテイ」(境界性)と規定し、そこにおいて「コムニタス」という特別の共存的・平等的な情況が一時的に実現することを述べて、通過儀礼の文化的な豊かさを強調し大きな影響力を持った〔5〕。
国家儀礼は、前近代の国家のみならず近代国民国家にとっても不可欠の統治手段となっている。とくに国民統合・国民動員という点で儀礼と無縁な国民国家は存在しないと言ってよいであろう。生身の強制力発動以前に国民統治、国家への国民統合をいかに実現できるかは統治の要である。そこでは象徴を用いた儀礼が積極的に利用され、コスモロジーや情緒の次元で被治者に働きかける〔6〕〔7〕。
多くの抵抗を引き起こしつつも、いまや全国の学校で完成しつつある特異な儀礼の本質の解明には歴史的分析と構造的分析が必要である。本稿は主にこの後者の分析をしようとするものである。まず、2011年春に実施された卒業式・入学式の実態を或区に所在する9校の都立高等学校の例で具体的に明らかにする。次いで、儀礼で使用される象徴および重視される所作の分析を行う。最後に、当該儀礼の含意について考察する。
※用語の問題として、卒業式・入学式全体の時間的流れの中の個々の要素を便宜的に「儀礼行為」と呼んでおく。
注〔1〕「儀礼」(『岩波哲学思想辞典』(1998))。なお、『宗教学辞典』(東京大学出版会。1973)は、「儀礼rite」として項目を立てて、「ここでは、聖なるものとのかかわりにおいて定められた宗教行動の体系としてとらえることにする。」と、さしあたりの定義をしている(宮家準)。
注〔2〕同上
注〔3〕綾部恒雄「通過儀礼」(『平凡社世界大百科事典』(第2版(デジタル)1998))
注〔4〕『通過儀礼』p8-9(綾部恒雄・綾部裕子訳。弘文堂 1977)
注〔5〕『儀礼の過程』(新思索社1976。冨倉光雄訳。原著は1969)特にp125-127。
注〔6〕文化人類学者清水昭俊は、権力を持つ側の支配の手段として儀礼的行為が必要不可欠なことを、以下のように述べている。「強制力の行使は権威としての失敗であって、権威は強制力行使に優る支配統制を、強制力なしに達成しなければならないからだ。力によらない力の構成という、権威に課せられたこの課題は、その論理的構成の性格上、象徴的にのみ解決可能である。」「かくして、支配的な地位や集団は常に権威であることを顕示し、納得させ、さらに相手を自発的追従へと誘導しなければならない。そのために権威は、権威の根源たる「正当性」イデオロギーを強調するとともに、このイデオロギーを可視化する行為形式に訴えることになる。国家・社会の中心部での行事のみならず、市民社会の細部においても、日常的営為がしばしば荘重、華麗、壮大、そして整然たる形式的統一を特徴とする儀式となるのは、それによって象徴的に権威を構成しているのであって、その頻度は、権威であることを顕示する必要性の正確なバロメーターなのである。」(「儀礼の外延」p139,140-141(『儀礼-文化と形式的行動-』青木保・黒田悦子編、東大出版会1988))
注〔7〕本稿で使用する「コスモロジー」という概念は、宗教学者島薗進に倣ったものである。島薗は「〔総説〕一九世紀日本の宗教構造の変容」で次のように述べている。「この稿では、「イデオロギー」という語は政治的な機能から見た観念や言説を指す語として用い、「コスモロジー」という語は宇宙や世界や人間についての包括的なビジョンを含んだ観念や言説をさす語として用いる。・・・・「コスモロジー=イデオロギー」と結合させて用いるのは、実際には両者は分かちがたく結びついており、両者を分かつのはむしろ観察者側の視点のちがいによるところが大きいと考えるからである。」(小森陽一他編『岩波講座近代日本の文化史2 コスモロジーの「近世」』p43。2001年)