礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

柳田國男、『土の香』と加賀紫水を語る

2019-03-27 03:05:22 | コラムと名言

◎柳田國男、『土の香』と加賀紫水を語る

 最近になって、『土の香(かおり)』という雑誌に対する関心が強くなって、何冊か持っているバックナンバーを取り出したり、第九巻の翻刻版(人間社、二〇一三)を読み直したりしている。
『土の香』第九巻翻刻版は、たいへん厳密なお仕事で、編集にあたった小林弘昌氏、小島瓔禮氏の御苦労に頭が下がる。
 その巻頭近くに、〈参考〉として、柳田國男の「土の香の思い出」という文章が載っている。これは、柳田國男と『土の香』との関わりを示す貴重な一文である。楳垣実〈うめがき・みのる〉編『加賀紫水翁記念誌』(蝸牛工房、一九五一年六月一〇日)に掲載されたものだという。

  土の香の思い出   柳田國男

 アナトール・フランスの随筆集、ラ・ギィ・リテレェルの一節に、古語はおおむね田園の香を帯びて居るのがなつかしいとあるのに、深く心を動かされて居た頃に、ちょうど斯ういう名の加賀君の雑誌が出たのは、忘れ難い一つの奇縁であった。引き続いて『土のいろ』という、よく似た形のものが遠州の方からも出るという時代だったので、この選択はほんの偶然かも知れないが、『土の香』が私たちの方言に対する情熱を、かきたてた力は小さくなかった。そうして又この雑誌が世に遺そうとした印象も、特にこの方面に於いて濃やかであったように思う。
 年経てこの二つの雑誌が歩んだ途を振りかえると、隣国ながらも条件は可なりちがい、名前の近似を以って一括して批判することは出来ない。浜松の飯尾君には、始めから少数の同志があったに対して、起町〈オコシチョウ〉の加賀君は孤立独往して居たように思う。又前者には僅かの資力があって、印刷を人に托し、やや小ぎれいな雑誌を出して居たに反して、加賀君はどうやら自分で賸写版を切って居たらしく、こんな事では永く続くかなと思うようであった。ところが外からの推測などは当てにならぬもので、『土の香』は出した号数も少し多く、戦後には又いちはやく再興して、私たちに非常な勇気をもたせた。之に対して一方の『土のいろ』は仲間があっただけに、一人一人の故障が免れ難かったらしく、最近の消息は全く知らぬが、以前のけなげさを取り戻すことが、容易では無いように思われる。
 私はずっと昔、町というものの成立を調べたことがあるので、往って見たことは無いけれども起〈オコシ〉という町をほぼ知って居る。ただそこに半生を托した加賀紫水という人の、どういう人物であるかをついに詳〈ツマビラカ〉にし得ず、もしくは根拠もない勝手な想像を描いて居た。しかしとにかくに二十何年の久しきにわたって、飽きも疲れもせずに、同じ一つの仕事に、身を入れて来られたことは、僚然たる一つの現象であり、私たちのような物ずき仲間にも、そう沢山の類例を指折ることは出来ない。今となってはもうそんな時間もないが、是は一つ民俗学の前途の為に、是非とも観察し又研究して置くべき問題であった。出来ることならば加賀君の新たなる知友、又は久しき交遊を続けて居る人たちに引き継いで、将来どうすれば斯ういう特色に富める地方の学徒をして、最も多く世代の文化に寄与せしめ得るかを、考えて見てもらいたいものと思う。私の例でもわかるように、人の一生などはまたたく間に過ぎ去り、理解し又利用する者が周囲に居ない限り、効果を次の代に残すことは望まれないからである。
 私などの理解はまだ正鵠〈セイコク〉を得ないかもしれぬが、加賀君の特長の是からも大いに利用すべき点は、遠国の同志を求めるのに熱心だったことではないかと思う。江馬君御両人〔江馬修・江間三枝子〕の経営になった、飛騨高山の『ひだびと』ただ一つを除けば、『土の香』くらい弘く読者を県外にもった郷土誌は無かった。それが何れもこの編者の働きかけによって、次々に入って来た人ばかりであった。加賀君は尾張の方言の新旧記録の為に、その筆豆〈フデマメ〉能力を発揮しただけで無く、更に其一半を応用して実によく手紙を書いた。そうしてたとえば能田〈ノダ〉太郎君の遺稿の如き、幾つかの意外な方面の報告をこの誌上に保存し得たのである。比較研究の価値というよりも必須性を、今でも私は力説して止まないのだが、あの頃は殊にこの兆候の、新たに尾張方面に起こったのが嬉しく、おかしいほど熱心に提灯持ちをしてまわったものだった。
 ところが少しずつ気になり出したのは、この雑誌には反響というものが一向にない。もとより部数の僅かな為もあったろうが、誰かが読んで居るのやら居ないのやら、まるで小石を池の中に落としたようで、ちゃぶんという音すらもしない。是では第一に編輯に骨を折って居る人に、張り合いのない話だと思った。或いは尾州といふ土地柄が、広々として山に遠く、雑音が際限もなく入り交り、学問が各種の遊芸から超越して、一つの特殊なるコダマを造り上げることが出来ぬのかとも考えてみた。もしそうだとすると斯ういう時、斯ういう環境に生まれ合わせた加賀君が、第一にお気の毒である。歌や俳句の雑誌が皆それであるやうに、日本は元来小さな作者ばかりやたらに多く、しんみりとした読者の得られない国であった。民間伝承や方言の研究のような、全国飛び飛びに算えるほどしかない同志者を繋ぐ機関が、この大勢の卷き添えを食ったことは、単に或一人の計画者だけの不幸ではなかった。折角〈セッカク〉新しい機運にさきがけした『土の香』なれども、やがては極端な珍本となってしまい、少しも之を利用し得ない人たちが、徒ら〈イタズラ〉に加賀紫水君の名を記憶することになってしまわないかを私は恐れて居る。出来ることならばこの一つの経験に鑑み、せめては是からの地方大学が、孤立の人に省みられない調査などに満足してしまわず、総国の文化を唯一つの研究目的として、協同綜合の学問を成立たしめる為に、せめてはその半分の努力を捧げるようにしてみたい。是が現在の私の最大の念願である。   (二六・二・一 六)

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