◎官僚達の開催する会議ほどつまらぬものはない
本日も、和辻春樹著『生活の科学化』(弘文社、一九四七)から。本日は、「会議」という文章を紹介する。敗戦直後の文章だが、いま読んでも、まったく違和感がないのは、どういうことだろうか。
会 議
衆智を集めると稱して無暗に会議を開くが、行つて見るとくだらぬことが多く、無駄な時間と旅費を費し残るところは疲労ばかりといふ場合が少くない。殊に官僚達の開催する 会議ほどつまらぬものはない。忙しい民間人を、交通機関の混雑名状すべからざるときでも帝都に呼びつける。甚だしきは青二才の下僚官吏がその道に二十年三十年の経験者である社長に出席を要求したり、重役に出て来いと言ふ。会議は素人である官吏が責任逃れをするために開かれると言つても差支へない位だから、一応参会者にものを甘はせる機会を与へても、根が素人では判りやうがない。従つて決して民間人の申出でが理解出来やう筈もなく、元来彼等の手続きに捕はれての会議に過ぎないと見ねばならぬ。その道に精通してゐる何十年もの経験者を、素人たる若者が呼ぶといふことが、本来なら間違ゐであつて、必要があるならば辞を低くして教へを乞ひに出かけて来るべきである。会議といふ名目で人を呼びつけ即成の取つてつけた思ひ附きを尤もらしく説明して反対意見を出させぬやうに仕組んであるだけなのである。挙句の果には飲んだり、食つたりすること許り〈バカリ〉考へてゐる。『会議会議で日を暮す』といふのは、あながち不景気のときばかりに限らず、忙しい戦争のさ中にも相も変らず同じことをやつてゐたのであつた。真に会議の必要なこともないとは云へないが、無駄な会議ほど損失の大きいものはないので、事を迅速に運ぶには責任あるくろうとに一際〔一切〕を任せるととが最も捷径である。
自分達が考へたり、でつちあげたことに箔をつけるための会議は今後一際止めねばならぬ。『会議は踊る』といふ言葉もあり映画もあったが、価値なき会議を非難する実例は外国にも多く殊に国際会議などのあるときにもとかくの批判が少くない。戦争中『日本から会議と印形とを葬つては何うか』と某外人は言つた。能率的な事務を執る上から見れば、誠に尤もな言葉であつて、べたべたと捺印する為に書類の渋滞すること夥しく、俗に官庁事務は非能率の代名詞になつてゐるが、これは断然改革さるべぶことである。自分の捺印がその書類にはないから、責任は持てぬとか、己れは知らぬと称して、円滑に取運ばるべきことさへ暗礁に乗上げる実例も耳にする。形式的な官僚のやるあの会議の空気の濁つた朗かさのない実状を見れば、一度列席しただけでもその効果の如何は直ちに窺はれるのである。最近は集会といふ会議とも何ともつかない集まりを到るところでやつてゐた。只今会議中で不在であるとか、会議中だからといふ電話の断りとか用事を果すことの出来ない苦い経験は、誰しもが持ってゐることであらう。割拠主義の欠陥をカムフラーヂするための会議も多いやうだ。各省各局がそれぞれ割拠してゐて権限争ひと責任のありかを問ふことの多いために之を会議で解決しやうとする。割拠主義を棄て、書類の温存をやめ、誰でもが自分の責任を明にすれば会議を開いて小田原評定をするよりも遥に速く、事務が進む場合が多い。尚あらゆる面に於てくろうとが指導的地位に立つやうな社会機構、行政機構にならなくては能率のあがりやうがないのであるから、この機会をエポックとして無駄な会談合理性なき会議は自然消滅をさせねばならぬ。
上下〔裃〕袴を着たやうな昼の会議では、何となくぎつごちないから夜は宴会といふ会議の継続である。話は酒を飲むことによつて早く定かると称して相手を馳走し、所謂お茶屋会談や待合政治をやるが、元来官吏などが毎日毎晩料亭やお茶屋に民間人と共に出入すること自体か絶対に避けねばならぬことなのである。日本のやうにビジネスがかやうなところで行はれるとすならば、会議は勿論、種々な点に於て革新を要する執務上の欠陥が存することを裏書きしてゐるものと断じてよい。聞くも語るもその煩に耐えないほどの数多き醜事実は省略するが、会議そのものに関する根本的な考へ方を変へる必要がある。無駄な会議は止めやうではないか。かやうな社会生活を改革することは、公的私的の生活の合理化を意味することになり、それだけ無駄がなく、時間の浪費も減じて生活が科学化されることにある。是非共エキスパートの即決主義で仕事を敏速に取運んでゆけるやうな機構にしたい。
殊に官尊民卑の標本のやうに席を定め、会議に於ける発言の準備をするに充分な時間を与へないで、議案を会場で手渡しするのがかうした無駄な会議の悪習慣になつてゐる。議案は元来半ケ月又は一ケ月前に送付して検討するに充分な時間を与へ、自由に且漏れなく発言せしめ意見の発表を求めてこそ、会議の目的が達成されるのである。何々委員会、何々審議会などと沢山ある会議も大同小異で、形式的なものや委員会の手当てだけを狙つたやうなものは悉く止めるがよい。此点から日本では学会が最も合理的で大きい効果を挙げてゐると言へやう。矢張り科学化されてゐるところに合理性が顕はれると言つて差支へなく、無意味な会議は多くの忙しい人に迷惑をかけるだけで何の実績も認めないのが事実である。形式主義な会議は無駄な会議であつて科学的ではない。われわれの公的生活を科学化することが必然的に要請される今日、無駄な会議は排除せねばならぬ。