礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「嬉しがり」を戒める

2019-03-16 04:43:19 | コラムと名言

◎「嬉しがり」を戒める

 先日、和辻春樹著『生活の科学化』(弘文社、一九四七)という本を取り出し、パラパラとめくっていたところ、次の文章を見つけた。敗戦直後の文章だが、何だか今日の日本人のことを皮肉っているようで興味が尽きなかった。引用してみよう。

  嬉 し が り

 世に嬉しがり家〈ヤ〉といふ稚気満々たる性質の持主が多いが、サーベルを提げると嬉しがり、国民服とかいふ変な洋服を着ては嬉しがり、警防団服を着ると馬鹿にえらくなつたやうな顔をして嬉しがり、一時は軍人と一緒に歩くのを嬉しがり、他人の失敗を嬉しがり、身分不相応に歓待されたのを嬉しがり、大臣に招かれたのを嬉しがり、号令をかけるのを嬉しがり、他人の困却してゐるのを見て嬉しがり、戦闘帽でもなくバケツを逆さにしたやうな帽子を被つて〈カブッテ〉嬉しがり、金ピカな勲章をぶら下げて嬉しがり、凡そ〈オヨソ〉嬉しがるにも当らぬこと、嬉しがる必要もない場合、特に甚だしいのは教養ある者からは恥かしいと思ふやうなことまで嬉しがつて得意になつてゐる人間の数が日本には余りに多いことに一驚を喫せざるを得ない。富籤〈トミクジ〉が中つた〈アタッタ〉ときには誰もが嬉しがるものなのだろうが、嬉しがつても良い時の嬉しがりは大に嬉しがるが良い。だが稚戯に類することに嬉しがつて得々としてゐる様子は、傍から見てゐても歯の浮く感じがする。
 此嬉しがりといふことは独善と一脈相通ずるのであつて、身贔屓〈ミビイキ〉といふことに関連があり、凡そ偏狭、頑冥、排他、固陋などいふ文字の示すものも此低級なる嬉しがり家と共逋してゐる。嬉しがり家も一種の自己陶酔病にかゝつてゐる訳で、何でも自分の事が良く見えてならないか、無理に良く見やうと言ふのである。科学精神は謙虚の態度で表現される。だから生活が科学化されることは自戒自粛を意味し、決して独善に陥らぬことである。即ち嬉しがりといふことは科学精神を認識しないものでなければ罹れぬ〈カカレヌ〉病気である。独りよがりは己れを知らず敵を知らずに独負け〈ヒトリマケ〉といふ戦争をする。自分の持つてゐるものは何でも良く見える不思議な眼鏡をはめてゐるのが、独善居士で読りよがりで嬉しがり家の類〈タグイ〉だ。科学は独善病の手術をするメスに等しく、科学精神は此病人を恢復せしめる唯一の栄養と薬とである。
 そこでわれわれの生活が科学化されてゐるならば、嬉しがり家もおのづから影を没して来るであらうし、独善神憑り〈カミガカリ〉のお馬鹿さん達に昼行燈〈ヒルアンドン〉の如く雲散霧消するに違ゐない。俗に言ふ嬉しがり家に至つては理智の欠如を象徴してゐるだけなのである。ともすると科学精神なく科学知識なき人達は、途方もないととを考へ、大当外れ〈オオアタリハズレ〉を演ずる。ヒットラーも嬉しがり家のところがあつたに違ゐない。某々などいふ男は不思議な心理状態の持主だが、嬉しがり家を通り越して気狂ひだと一億国民が異口同音に云つてゐる。自惚れ〈ウヌボレ〉独善は馬鹿と紙一枚であるから誠に恐ろしいものなのである。かやうな嬉しがり家を出さない唯一つの道は、科学精神に徹して科学知識豊かな至誠の国民を作ることであるから、その基底たる家庭、学校、社会、生活に於て先づ科学化された教化が肝要であり、学校教育も根本的な改革が必要だが、それと同様に生活の科学化が喫緊の急務であらう。
 人から贈物を貰つて嬉しがる表情を顕はすことは、如何にも朗かで愉快に感ずる。心からなる人の親切に感激して嬉しがる様子を見れば誠に美しいものを覚える。かうした嬉しがりは所謂嬉しがり家の嬉しがることとは、全然その趣を異にしてゐるのである。嬉しがりは形式主義と名誉慾と利己主義から出る場合が多く、また弱者を強迫するやうな人々、人権を蹂躙〈ジュウリン〉するやうな者、低教養のものに退つて嬉しがり家である。換言すれば野蛮人ほど嬉しがりが多い訳だが罪がなく他愛もないに比して文明の皮を被つた未教養人の方が、よりみにくい嬉しがりを発揮するやうに見える。日本人にもだうやら此部類に遍入されても怒りも出来ない種類の人間が沢山ゐる実状を如何とも致し難い。科学精神の体得は嬉しがり家を一掃するに違ゐない。俗に言ふ嬉しがり家が横行濶歩してゐるやうでは、生活は少しも科学化されてゐないのであつてわれわれも此点につき余程の深い反省を必要とする。戦争中嬉しがり家の横暴振りは国民の肝に銘じ、憎悪の的となつてゐたところで、教養の極めめて低い人々が指導者顔をして号令してゐたことは、正に噴飯ものであつた事実を忘れ得ない。謙虚な人、如何なる場合でも人の人格を忘れない、科学精神を認識した人々は嬉しがり家にはなれないものである。国民の教養が高くなれば嬉しがり家が存在する余地もなく、生活が科学化された社会にはさういふ種類の人間が活動し得ないやうにまる筈である。国民がいつまでも文化のセンスに欠けてゐるやうでは、国家も世界の列に入れる訳もなく、他民族との協調も困難であらう。文化の高い教養も学問もある人が、冷静に嬉しがり家の活動してゐるところを観ると、恰も文字通りの百鬼夜行に見えるのである。知らぬが仏で嬉しがり家同志にはさうは見えないらしいが、その実〈ジツ〉滑稽極まるものであるだけだ。よくも嬉しがり家がかうも躍つたものだと今更ながら驚かざるを得ないが、われわれは決して嬉しがり家などになつてはならぬ。生活を科学化することは百鬼夜行を一掃する。

 教養人が低教養人を見下しているようなイヤミが感じられる。また、科学に対する素朴な信仰には大いに疑問がある。しかし、そういった点を除けば、なかなか参考になることを言っている。
 これを読んで、「嬉しがり」には気をつけなければならないと強く思った。というのは、今日、駅の売店で、夕刊紙二紙を見ると。そのトップ記事の見出しは、どちらも、「嬉しがり屋」を狙ったものであることが明白である。また、今日、ブログ記事などのタイトルを見ると、これまた「嬉しがり屋」を狙ったものが多い気がする。夕刊紙は読者の購買意欲を煽るため、ブログ記事はアクセス数を増やすため。当ブログは、記事の選び方にせよ、タイトルの付け方にせよ、これまで、「嬉しがり」を狙うことはしてこなかったつもりだが、今後も、そういうことをしないよう自戒してゆきたい。また、自分のブログへのアクセス数が増えて「嬉しがる」ことも、少し控えなければならないとも思った。

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