◎藤原与一氏の前途こそ刮目すべきである
橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)から、「昭和方言学者評伝」を紹介している。本日は、その一九回目で、〔広島県〕の項を紹介する。
東條〔操〕さんが広島高師の教授として、彼の地に赴任したのは昭和四年〔一九二九〕の春であった。その感化は忽ち周囲に及び、翌年〔一九三〇〕四月には、県立師範が全県的の方言調査をなすまでになった。満四年の後、これは「広島県方言の研究」と題する菊判一九八頁の著書となって現れた。その間、教師を助けて、献身的に整理に当つたのは同校の生徒村岡浅夫君であつた。東條さんは三年あまりの広島在住の間に、広島方言学会を結成し、幾多の有為の方言学徒を養成し、自らも中国方言の資料を豊富に蒐集し、所期の目的を完全に果したので、昭和七年〔一九三二〕七月卅一日、広島に別を告げて、東上の旅に上つた。村岡君が多年苦心の末に成つた「広島方言の研究」の稿本を懐にして、東條さんに会ふために、任地から広島市に上つたのは恰もこの日であった。停車場の群集と雑沓を背景にして、両人が稿本を中に相対したなら、さぞ劇的シーンを演じた事だらうに、僅か一足の相違で汽車は発車し、煙は長く恨〈ウラミ〉の尾を引いた。
山田正紀氏の事は既に山梨県の所で述べた。同氏が「瀬戸内島嶼方言資料」を調べ上げたのは広島文理科大学の学生時代であつた。
東條さんの秘蔵弟子に今一人藤原与一氏がある。同君は広島県と愛媛県との境にある大三島〈オオミシマ〉に生れた。同君の興味が、先づこの両県の方言境界線を探る事に向いたのは自然であつた。かくして、苦心調査の結果は、三百余枚の分布地図に作られ、その内廿八枚が公刊されて居る。中国と四国とのアクセントが截然〈セツゼン〉として違ふ事は、先に服部〔四郎〕・大原〔孝道〕二氏によつて明にされたが、藤原氏は更に瀬戸内海の島々について詳しく調査して、その境界線を確定した。桂〔又三郎〕氏から聞く所によると、藤原氏には、郷土大三島の方言について、「採訪南島語彙稿」に匹敵する大著の稿本があり、又方言学の体系化を企てた稿本もあると言ふ。又、西日本一帯の分布調査を企て、すでに第一次的調査は終つて居るとも聞く。学業の余暇、かくまで多量の仕事をなした精力ぶりに驚かされる。氏は広島高師卒業の後、松山歩兵二十二連隊に入営し、除隊の後、岡山県立倉敷実業学校に教鞭を執り、再び志を立てて広島文理科大学国語科に学び、卒業の後なほ研究室に止つて居る。その志は日本方言学の体系化にある。全国を被ふ大志と熱烈なる研究心と健全なる身体とを有し、加ふるに豊かなる春秋を以てす。氏の前途こそ刮目すべきである。
「中国地方語彙」の著者川崎甫氏は農業技師である。畑違ひの技師から出て、しかも広島だけに満足せず、中国と大きく出た意気は頼もしい。ただし、鳥取県は欠けてゐる。畑違ひと言へば磯貝勇氏も物理の教師にして、昔話や方言を蒐集して居る人である。「畜牛に関する市場用語」の著者辰巳盛太郎氏は畜産関係の人と見えるが、これ亦変り種である。
この外、広島県には、清水範一・山田次三・永井博・藤河喜美江の諸氏がある。