◎古谷綱正「二・二六事件と私」
書棚を整理していたら、古谷綱正(ふるや・つなまさ)解説の『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)
という本が出てきた。巻末に、三十八ページに及ぶ解説が付いている。
古谷綱正(一九一二~一九八九)は、ジャーナリスト、ニュースキャスター。むかし、テレビのニュース番組に、この人が出ていたことを、よく覚えている。
本日は、同書の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、その最初の節「二・二六事件と私」を紹介してみよう。
二・二六事件と私
一九三六年二月二十六日、二・二六事件の当時、私は毎日新聞社の水戸支局員だった。前の年に学校を出て新聞記者になって、まだ一年もたたない、ほんとうのかけ出し時代であった。
その日の朝早く、支局からの電話で起された。水戸も深い雪におおわれていた。支局に行ってみると、東京でただならぬ事件が起こっていると知らされた。くわしいことは、まだわかっていない。ただ、青年将校の一団が総理官邸などを襲撃して、何人かの元老、重臣を殺したという。五・一五事件に匹敵するような事態が起っているらしい。
水戸には、五・一五事件に、多数が農民決死隊として参加した愛郷塾〈アイキョウジュク〉がある。愛郷塾の主宰者、橘孝三郎の郷里でもある。その愛郷塾連中が、こんどの事件に関係してはいないか。それと水戸の歩兵連隊の動き、これを探って、くわしい情報を送れというのが、本社からの指令であった。
私たちは、それぞれ手分けして、雪の街にとび出していった。街の人たちは、まだ事件については何も知っていないらしい。いつもとまったく変らない平穏さであった。私は、自分だけが事件の起ったのを知っているというかけ出し新聞記者の持つ優越感と、その事件の詳細がよくわからないというもどかしさを同時に感じていた。
指定されたところを、いくつか回ったが、新米記者にはろくな情報も得られない。水戸連隊長の横山勇大佐も、会ってはくれたが、みごとにとぼけられてしまった。二・二六事件の芽ともいえる「十一月事件」(昭和九年、この事件は全員が不起訴になった)に関係した辻政信大尉(当時)が、重謹慎三十日の処分を受けたあと、陸軍士官学校付から、この水戸連隊に赴任してきていた。辻大尉は密告者として、革新将校たちの評判は悪かった。おそらくそのとき、辻大尉はここにいたはずだったが、そんなことは、私の知る由もなかった。
支局に帰ってみると、本社から次々に情報が入っていた。だが、ラジオは沈黙したまま、なにもいわない。午後になると、うわさを聞いた人たちが、支局を訪ねてきて、真相を知ろうとした。
夜、八時十五分になって、初めて陸軍省発表が、ラジオで放送された。
「本日午前五時ころ、一部青年将校は左記の個所を襲撃せり。
首相官邸 岡田首相即死
斉藤内大臣私邸 斉藤内府即死
渡辺教育総監私邸 教育総監即死
牧野伯宿舎(湯河原伊藤屋旅館)牧野伯不明
鈴木侍従長官邸 侍従長重傷
高橋大蔵大臣私邸 大蔵大臣負傷
東京朝日新聞社
これら育年将校の蹶起〈ケッキ〉せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危機の際、元老、重臣、財閥、官僚、政党等の国体破壊の元凶を芟除【さんじよ】し、以て大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり。右に関し、在京部隊に非常警戒の処置を講ぜしめたり」
そして、さらに東京警備司令部からの戦時警備下令に関する発表、警備司令官香椎浩平〈カシイ・コウヘイ〉中将の市民への告諭を放送した。
東京本社で刷った号外を待っていたら、夜半すぎになる。水戸でいわゆる現地号外を刷らなければならない。雪が深いので、私たちは印刷所に近い新聞販売所に本拠を移して、本社から送ってくる原稿を、印刷所に持ちはこんだ。雪の中を何度か往復した。そして刷りあがった号外を手にして、販充店の奥さんが、ヤカンで温めてくれた酒の味は、いまでも忘れられない。事件の重大さより、そんなことの方が、強く印象に残っている。【以下、次回】