◎居眠りすると妻君が裁縫用の二尺差しでつつく
この間、橘正一著『方言読本』(厚生閣、一九三七)の巻末にある「昭和方言学者評伝」を紹介してきた。本日は、その二六回目(最終回)で、〔沖縄県〕の項を紹介する。
〔沖 縄 県〕
琉球語を研究した最初の内地人は田島利三郎氏(秋田県の人)であるといふ。同氏は国学院大学の前身の皇典講究所の出身で、明治廿六年〔一八九三〕四月から廿八年〔一八九五〕十月まで滞琉し、県立一中の教師をしながら、琉球の万葉集とも言ふべき「おもろさうし」の研究に没頭した。当時の教へ子に伊波普猷〈イバ・フユウ〉氏があつた。伊波【イフア】氏は最初、政治家を志したが、後琉球語研究に志を立て、三高を経て、東京帝大言語学科に学んだ。恰も、田島氏は東京の女学校に教鞭を執つて居たので、二人は一軒の家を借りて共同自炊し、伊波氏は田島氏から「おもろさうし」の講義を聞く事が出来た。しかし、二三頁進んだ頃に突然田島氏は台湾に去つた。一人残された伊波氏は独立研究を決意した。斯くして、苦辛研鑽の結果、さしも難解な「おもろさうし」も、大学卒業の頃には半分位解ける様になつた。以来、三十数年間、ひたすらに、琉球語研究に没頭して居られる。著書に、「古琉球」「琉球古今記」「南島方言史綱」「校訂おもろさうし」「おもろさうし選釈」「琉球戯曲集」「孤島苦の琉球史」などがある。
宮良当壮〈ミヤラ・トウソウ〉氏については、「方言と土俗」四巻六号に、方言研究者合評会として出て居るから、ここに転載する。名は合評会だけれども、実は自分一人が書き分けたものである事を、今白状して置く。
E「宮良さんは信頼できるといふ感じのする人だ。やる事に危なけが無い」
B「宮良さんは、今頃は、も少し、有名になツてゐてもいい人だと思ふ。随分早くから書いてゐるんだから……」
C「琉球語では、伊波さんが太陽の様に輝いてゐるから、外の人は皆、光を消されてしまふのだらう」
A「宮良さんは十五日の晩に光る人だ」
D「同じ琉球語の研究者でも、伊波さんと宮良さんとでは、大分、行き方が違ふ様だ。伊波さんはやる事がはでだが、宮良さんは地味だ。伊波さんは研究家だが、宮良さんは採集家だ。伊波さんは通俗雑誌にまで書くが、宮良さんは専問雑誌以外には書かない。だから、伊波さんの方がホピュラーだといふ事になる」
A 「宮良さんはあれでいいんだよ。下手に、人の真似をすると、自分の長所まで失ツてしまふおそれがある」
D「伊波さんの代表作は古琉球と琉球古今記だし、宮良さんの代表作は採訪南島語語彙稿と八重山語彙とだ。この二つを較べてみると、二人の性格や事業の相違がはツきりして来る」
A 「もし伊彼さんが無かツたら、琉球語の知識は今日ほど普及しては居なかつたらうし、もし宮良さんが無かつたら,琉球語の知識は今日ほど確実ではなかつたらう」
D「宮良さんは沖縄県の最南端、台湾の一歩手前の八重山の人だが、あんな所から、よく、ああ言ふ人が出たもんだね。八重山は交通不便で、生活の程度が低いので、沖縄本島の人からさへ馬鹿にされてゐる。僕は琉球の新聞を取つてゐた事があるが、ある時、八重山の火事の話が出て居た。一軒丸焼けになつて、損害が二十円と言ふんだから驚いたね。豚小屋を建てるにだつて、二三円はかかるだらうに……。その火事の原因が、また、振つてるんだ。蝋燭をつけて雑誌を読んでゐた。そのまま、睡つてしまつた。そしたら、蝋燭から蚊帳に燃えついたと言ふんだ」
B「宮良さんは立志伝中の人だと思ふ。いつか、東京朝日新聞にも出てゐたが、納豆売りをしながら郁文館中学に通つた。洋服を着た納豆屋さんと言はれたもんださうだ。国学院大学時代には、古本屋の夜店をやつた事もある。「外来語の研究」といふ本を出した前田太郎さんの助手みたいな事をやつた事もある。助手兼八重山語の先生といふ格なんだらうが……。八重山語の蒐集は、その頃、中学生時代から、もう、始めてゐたんだから、考へてみれば、随分長い経歴さ」
A「僕はある人から聞いたんだが、大正十三年〔一九二四〕に、始めて、芳賀〔矢一〕さんの推薦で、帝国学士院の会議に上される〈ノボサレル〉事になつた。それの決まつたのが一月二十日だ。会議は二月十一日にある。この間三週間。この三週間の内に、あの尨大な八重山語彙の索引を作つて、甲乙両編揃へて出さうといふ事になつた。さあ大変だ。学校は休んで、向ふ鉢巻で、カードの山の前に坐つた。この三週間の内に、四日間撤夜し、残りの日も、一度に二時間か三時間しか眠らなかつた。夜など疲れて、居睡りでもすると、側から妻君が裁縫用の二尺差しでつゝき起す。それでも目をさまさないと、背中に水を注ぎかけるために、冷水を入れた薬鑵まで用意してあつた。かうやつて、カードの配列から始めて、わづか三週間の内に、六百二十枚の原稿を作り上げた。最後の徹夜で清書し終つた時は、身心ともに、疲れ切つて、我が物の様でなかつたと言つてゐる。それから、履歴書を書く番だが、何しろ、疲れてゐるから、何べんも間違つて、十枚も書き直したさうだ」
D「修業時代の新井白石以上だね」
B「体が丈夫でなくちヤア出来ないな」
E「学生時代から細君が有つたのかい」
B「国学院大学の予科にゐた時に、金田一〔京助〕さんの媒妁で結婚したんだ。子供まで有つた」
E「そしてその原稿は、その時、学士院を通つたのかい」
A「その時以来、今日まで、ズーツト、研究費の補助を受けてゐるんだよ」
E「二三年前に東洋文庫から出た八重山語彙は、その時三週間で書き上げたものかい」
A「いや、あれから又増補したんだ。旧稿では一千枚だったが、新稿では二千枚になつてる。あれが世の中に出るまでにも、並々ならぬ苦心が隠れてゐたんだよ。校正だけでも八九回もやつたさうだ。何しろ、 小蝦の鬚みたいな万国表音文字だからね。活字だけでも、百あまりも新鋳したと言つてる」
B「その結果が、日本最大の方言集となつたのだから、その苦心は報いられたと言つていい」
「琉球人の見た古事記と万葉」「国語史の方言的研究」の著者奥里将建〈オクザト・ショウケン〉氏も亦、立志伝中の人である。小学校を終へただけで、独学、小学校教員の検定試験に合格し、次いで中等教員の検定試験も及第し、後志を立てて、京大国文学科に学び、在学中、高等教員の検定試験に合格したといふ苦学力行の努力家である。
この外、同県には、「沖縄語の研究」の著者桑江良行氏や、「琉球方言資料」の著者大湾〈オオワン〉政和氏がある。金城朝永〈キンジョウ・チョウエイ〉氏の名も記憶すべきである。