礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

関東大震災と武者小路実篤の戯曲『桃源にて』

2019-09-03 05:26:01 | コラムと名言

◎関東大震災と武者小路実篤の戯曲『桃源にて』

 共同通信社の『近衛日記』の紹介に戻る予定だったが、ごく最近、関東大震災関係の文章を読んだので、本日は、これを紹介する。
 その文章は、宇野浩二の「武者小路実篤」というエッセイの一部である。「武者小路実篤」は、宇野浩二『文章往来』(スティル社、一九八三)の「作家の道」に収録されている。

 九月(大正十二年〔一九二三〕)の『改造』に武者小路実篤の『桃源にて』という戯曲が載っている。三幕物で、第一幕、見わたす限り桃の花盛りの山の場で、主人公の男がその弟の少年に『天下にこんな美しい桃の山があるでしょうか』と云われて、『ないかも知れない、あるかも知れない』と武者小路流に答えて云う。『しかし益々美しくすることはいくらでも出来る。人間の力をつくしたらこの山の何倍も美しい山をつくり出すことが出来るだろう。ただそういう人がこの世にいないだけだ。私はこの仕事をやり出した以上は美しい上にも美しくする。そしてこんなに美しい桃の山を見たことがないという仙境をつくって見せる。』
 しかしまもなく、この少年が愛する少女を囲おうとして、数人の荒くれ男たちを欺き、終に兄である男をも欺いたために、折角の桃の木が片端から切り倒されるような事件が持ち上がる、猶、そればかりでなく、その切り倒された桃の花が、そこらの川の中に落ちて流れたので、折柄司じ山中に猟に出ていたその国の王の眼にとまって、王は家来を連れて、その源を尋ねて来る。そうして荒くれ男たちを追い払い、代りに残った桃の木をことごとく自分の離宮の庭に移さしてしまう、というような事が起こる。後に、主人公の男は抵抗する力なく泣き入るうちに第一幕終り。――私はここまでを八月末日に読んだ。
 ところが、翌日の九月一日にあの大地震が起こった。私は、家の者や町内の人と一緒とに、近くの寛永寺の境内に逃れて、そこのとある木の下に茣蓙を敷いて一夜を明かす覚悟をした。……すぐ側には一番低い木の枝の下に、私と同じ町内の住人である柳家小さんが、いつ見ても動かない恰好で、籐椅子〈トウイス〉にもたれている姿が、置き物の木像のように見えた。私は、家から二三冊の雑誌を持ち出して、しぜん先きの『桃源にて』のつづきを読んだ。
 第二幕では、前の幕でせっかく二十何年の丹精の跡形もなくされた主人公が悲観落胆して川辺で釣りをしているところへ、一人の老人が現れて、どうして君ほどの者がそんなにしょげているのだ、と慰める。が、男は、すっかり落胆していて、いくら植えても又持って行かれてしまうからと歎息する。そこで、老人が『持って行くのを君の力でとめる事が出来なければ持って行かれるのに君の責任はない、だが生きている限りは、自分の仕事を止めるのは恥だ。生きている間は失望する事を知らない男であってほしい。死ぬまではいくら切られても、折られても、又生きかえる男であってくれ、そういう男のいてくれるのは人間に生れたよろこびなのだ。と云う――
 やがて、九月一日が暮れ、二日が過ぎ、三日と立った。そこで、又『桃源にて』に戻ると、例の老人が、落胆した男に云っている。『君はあの切られた桃から生え出したあの元気のいい芽の美しさをよく見ないのだね。君はこの木が大きくなった時の事を考えるから大へんなのだ。この小さい芽を出すその勇気に感心し、この小さい桃の美しさに感心すれば、それだけでどの位美しいものか知れない。私はこの桃に礼拝する。』そうして、老人はお辞儀をする。(このあたり如何にも武者小路らしい)『失望したり、自棄をおこしたり、一寸した事で勇気を失うた話を聞くと私は腹が立ってくる。それが人間と云うものだ。その力がなくって人間は進んでゆけない。参るのも人間だろうが、それで折れないのも人間だ。』そうして老人は(桃の木をさすりながら、飽かず芽を眺め、)『この美しさ、私もお前に負けないよ。お前は私の先生だ。私はやり抜く。』こう叫ぶところで、第一幕終り。【以下、次回】

 これによれば、宇野浩二(一八九一~一九六一)は、関東大震災があった際に、武者小路実篤(一八八五~一九七六)の戯曲を読み始めており、避難先である寛永寺の境内で、その続きを読んだという。
 なお、同じ避難先にいた「柳家小さん」というのは、四代目柳家小さん(一八八八~一九四七)のことであろう。

今日の名言 2019・9・3

◎参るのも人間だろうが、それで折れないのも人間だ

 武者小路実篤の戯曲『桃源にて』に出てくる言葉だという(原文は未確認)。上記コラム参照。

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