礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

内閣を改造して一路邁進する決心だ(東條英機)

2019-09-18 03:38:47 | コラムと名言

◎内閣を改造して一路邁進する決心だ(東條英機)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一二日午後五時三〇分の日記を紹介する。

十二日午後五時三十分
  藤山愛一郎氏(海軍顧問)来訪

 藤山氏いわく
 海軍は大臣に米内〔光政〕大将、軍令部長に末次〔信正〕大将ということに部内の意見が一致 している。又、次の内閣は寺内〔寿一〕元帥がよかろうと言っている。
 昨日(十一日)木戸内府に会ったが、内府は自分から発動する意思はないが、重臣が動いて内閣が更迭するようになることを待望している。
 内府は自ら重臣に集まってもらう訳にはいかないが、重臣が自分を呼ぶのなら何時でもその席に出ることを躊躇【ちゆうちよ】しない。重臣会議の開催を促進してもらいたい、と言っていた。なお、今朝、阿部〔信行〕大将を訪問したところ、ちょうど東條首相が来訪していたのでしばらく待って首相が帰ってから面会したが、阿部大将の話では、翼政会〔翼賛政治会〕がサイパン敗戦の責任を問うて「善処すべし」と決議した。その決議伝達に対する返事のために来訪したので、
  戦争は極めて重大だからやめる訳には行かない。又、やめないで引続きその職に尽すことが、臣節を竭【つく】す所以【ゆえん】と考えている。内閣を改造して一路邁進【まいしん】する決心だ。
 と言って行ったそうだ云々。

注1 藤山愛一郎 海軍省顧問。明治、大正、昭和三代にわたる財界巨頭、雷太氏長男。大平洋戦争当時、東京商工会議所会頭、大日本製糖などの社長。戦時中、海軍省顧問、続いて鈴木〔貫太郎〕内閣顧問。戦後、岸〔信介〕内閣の外相となり、政界にはいった。
 同氏の回想によると「当時、国力は限界に達し、東條内閣は財界の支持も失っていたので近衛公や岡田啓介、池田成彬氏らと相談、まず不仲だった海軍の二本柱、米内光政(純軍人肌で非枢軸派)と末次信正(政治家肌で枢軸派)両大将を芝・白金の自宅で握手させ、海軍を一本化、第二段階では閣内の岸信介国務相と提携、東條首相の内閣再建策(岸国務相の解任と藤原銀次郎氏の軍需大臣案)を行詰まらせ、東條打倒に一役買った」という。
 注2 阿部信行 元首相、陸軍大将。荒木貞夫、松井石根、本庄繁、真崎甚三郎各大将と同じ陸士九期生。軍務局長、陸軍次官などを歴任、浜口〔雄幸〕内閣で病気の宇垣〔一成〕陸相代理、昭和十四年〔一九三九〕、対欧政策に行き詰まった平沼〔騏一郎〕内閣のあとを受けて組閣、国民生活不安定で不信任決議を受け軍の支持もなく、四カ月半で総辞職した。十七年〔一九四二〕、貴族院議員、翼賛政治会総裁。小磯〔国昭〕大将の首相就任のあとを受け十九年〔一九四四〕朝鮮総督となり敗戦。戦犯に指定されたが、不起訴処分で釈放。長男信男氏の妻由喜子さんは木戸幸一内大臣の長女で、木戸内大臣とは親しかった。二十八年〔一九五三〕、七十七歳で死去。石川県出身。

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