◎敵は新占領地に新政権を樹てるかも知れぬ(酒井鎬次)
共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月五日、および七月八日の日記を紹介する。
五日午前十一時
小林躋造〈セイゾウ〉大将来訪
大将いわく
サイパンは結局、大損害だ。海軍の航空本部の者に聞くと、今まで増産増産というけれども、飛行機は全く増産になっていない。出来たものは片っ端から破れる〈コワレル〉。それは材料が悪いからだ。今度は材料を精選しているから、これからはよくなるだろうと言っていた。 それから土浦〔海軍航空隊〕へ行って見ると、今五百人程、猛訓練をやっている。これらが近 いうちに補充として役に立つだろう云々。
八日午前九時頃
富田健治氏来訪
参謀本部の酒井〔鎬次〕中将の伝言として、東條〔英機〕首相が陸軍要部の人々を集め、驚くべき命令をなしたることを報告す。以下、酒井中将の言葉
東條〔参謀〕総長は「敵が本土上陸の場合には、フランスにおける独軍の如く、艦砲射撃の射程外に引込み防衛するから、その準備をなせ」と命令した。
(註、此の日午後、東久邇宮〔稔彦王〕殿下に拝謁【はいえつ】したる際、首相の此の命令を御報告申上げしに、殿下は事実なるべしとのお話なりき)
そうなれば、海岸地帯はことごとく占領せられ、敵は新占領地に新政権を樹【た】てるかも知れぬ。そうなったら容易ならぬ事態となる。
(註、在米の大山郁夫を連れ来り、新政権を樹立せしむるやも知れず。又さきにモスコー〔モスクワ〕より延安に来り、中共と合体せる岡野某〔野坂参三〕を中心とせる我〈ワガ〉赤化せる北支俘虜【ふりよ】三百名は、かねて本国のかかる事態に陥【おちい】ることを期待しつつあり。現に岡野は先般、母国日本に向て、早く敗戦すべしと放送せり)
東條総長の考え、かくなる以上は、私〔酒井〕の進言を一刻も早く実現していただきたい。
七月八日の日記中に、「私の進言」とある。ことによると、今月九日のコラムで紹介した「昭和一九年七月二日付近衛文書」は、酒井鎬次陸軍中将が執筆したものではなかったのか、などと考えた。
同じ七月八日の日記に出てくる富田健治(一八九七~一九七七)は、第二次、および第三次近衛内閣で、内閣書記官長を務めた。この日記が書かれたころは、近衛文麿の秘書のような仕事をしていた。当時の肩書は貴族院議員。