礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本のジャーナリズムの欠点は軽薄なる雷同性と無批判性

2019-09-06 03:57:35 | コラムと名言

◎日本のジャーナリズムの欠点は軽薄なる雷同性と無批判性
 
 このブログを始めたころ、「津久井龍雄、日本の国民性について語る」というコラムを書いたことがある(二〇一二・八・二三)。最近のジャーナリズムの傾向を見ていて、このコラムを再掲したくなった。以下は、過去のブログの引用。

◎津久井龍雄、日本の国民性について語る
 津久井龍雄の『日本国家主義運動史論』(中央公論社、一九四二)の紹介の三回目である。本日は、津久井が文筆活動にあたって心がけてきたこと、日本の国民性ということについて語っている部分を引用する(原本一九八~二〇一ページ)。
《最初に筆者が筆を執つたのは文藝春秋の新聞月評であつたかと思ふが、これは田村町人といふ匿名で書いたのである。此の月評を執筆する根本の意図は、主として無見識無定見のジャーナリズムを打つといふところにおかれ、左翼や民主主義の運動が盛んなときは無条件に之〈コレ〉を礼賛し、いままた時局が右に向けば、先を争つて其の提灯を持つといつた唾棄〈ダキ〉すべき態度を戒めると、いふところに其の眼目をおいたのである。
 序〈ツイデ〉に云へば、爾来〈ジライ〉筆者の物する文章のすべてを一貫するものは右の趣旨に尽くるといつでさしつかへなく、日本国民の最も悪しき欠点は、此の軽薄なる雷同性と無批判性とにあることを指摘してきたのである。僅か〈ワズカ〉数年前までは国家とか軍人などといふものにはまるで無関心でゐながら、今はただ無批判にその権力の前に叩頭〈コウトウ〉する醜態はそもそも何事であるか。さういふ無批判なことでは、再びまた時勢が変化すれば、それに伴つてどう豹変するかわかつたものではない。個人主義から全体主義への推移といふやうなことも、個人主義とは何か全体主義とは何かといふことが能く〈ヨク〉呑み込め、その上で合理的な転心が行はれるならば結構であるが、個人主義もわからず全体主義も呑み込めず、それで一時の時潮に迎合して右往左往するといふのでは、その不見識が憐れ〈アワレ〉まれるばかりでなく国家の憂患は測り知り難いものがある。
 このことはひとりジャーナリズムの世界にだけ見られることではない。日本の社会のあらゆる部面に例外なく見られる現象である。無産党などといふものの醜態は、なかんづく〔とりわけ〕見られたものでなく、筆者等が散々その非国家主義的傾向に対して反省を促したときは、どこを風が吹くかと嘯いて〈ウソブイテ〉ゐたものが、一朝〈イッチョウ〉時勢の変に会ふと、ただ当局の鼻息を窺つて取り潰しの厄〈ヤク〉に遭はざらんことにこれ汲々とし、世俗にいはゆる恥もなければ外聞も忘れるといふの浅ましい陋態〈ロウタイ〉をさらけ出したのである。
 嗤はる〈ワラワル〉可きは無産党のみではない。政友会も民政党も少しも変つたことはない。表面では軍人や官僚などに如何にも反抗するやうなヂェスチュアを示しつつも、時局に対する真の理解も又見透しもないのであるから、あくまで彼等と闘ふ勇気などの出るわけはなく、軽薄な嫌がらせなどを事としつつ結局は朝に一城を抜かれ、夕に一郭を落され、遂には我とみづから其の首を縊つて〈ククッテ〉生ける屍〈シカバネ〉として議会の一角に佗しい〈ワビシイ〉存在をつづけてゐる有様〈アリサマ〉である。
 日本国民が真に東亜の盟主として全アジアに号令するのみならず、いはゆる八紘一字の大理想を天下に布施〈フセ〉せんとするならば、このやうな軽薄さからまづ第一に蝉脱〈センダツ〉しなければならない。また国民全体としても、また国民各員としても、自主独立の気概と自覚とを鮮かにし、如何なる道を進むにせよ必ず自己の納得せる信念に立脚して之を行ふといふことにならなければならない。さう考へて初めて他を動かし他を率ゐることが可能となるのである。
 筆者の書くものには、たとへ眼前卑俗の政界の動きを対象とするやうな場合でも、必ず右の趣旨を反映せしめなかつたことはない。あるいは少し冗い〈クドイ〉と思はれるくらゐ、その趣旨を反覆しすぎたかも知れない。しかし現在の日本において云はるべき最も必要なことは此の一点を最もとするといふ信念において筆者は今尚ほ〈ナオ〉寸毫も変るところはないのである。》
 軽薄な日本国民は、「東亜の明主」にふさわしいのかという鋭い問いかけに注目したい。
 また、文中に、「さういふ無批判なことでは、再びまた時勢が変化すれば、それに伴つてどう豹変するかわかつたものではない」という箇所がある。こういう冷めた認識が、津久井の津久井たるゆえんである。ことによると津久井は、この時点ですでに、「再びまた時勢が変化」することがありうると予想していたのではないだろうか。
 三回にわたって、津久井龍雄の『日本国家主義運動史論』を紹介してきたが、実は、一番紹介したかったのは、本日紹介した部分である。津久井龍雄という思想家については、また機会を改めて紹介してみたい。

※以上が、過去のコラムの引用である。津久井龍雄は、「日本国民の最も悪しき欠点は、此の軽薄なる雷同性と無批判性とにある」と言っている。しかし、最近のジャーナリズムの傾向を見ていると、「軽薄なる雷同性と無批判性」を批判しなければならないのは、何よりも「日本のジャーナリズム」である。無理に、「日本国民」にまで拡大する必要はない。そういうわけで、本日のコラムのタイトルは、「日本のジャーナリズムの欠点は軽薄なる雷同性と無批判性」とすることにした。

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