礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

夜になると遥か地平に死人を焼く赤い煙が見える

2019-09-04 02:44:39 | コラムと名言

◎夜になると遥か地平に死人を焼く赤い煙が見える

 宇野浩二『文章往来』(スティル社、一九八三)の「作家の道」から、「武者小路実篤」というエッセイの一部を紹介している。本日は、その後半。

 はたして、第三幕では、第一幕以上に山々の桃は美しく咲いていて、そこに男と老人とが坐っている。『私はすべて何かに任せていました。万事あなたまかせの春のくれ。そんな気持で、ゆったりとした気持で仕事をしました。あんまりこの景色に執着すると、又嵐がやって来ないとも限りません。だが私は安心してたのしめることをよろこんでいます。』と男は云う。『何しろ愉快だ。』と老人は云う。(ここらで音楽があってもいい、と作者は註している)そうして、最後に第一幕に出た少年と少女とが立派な武士と妻になって出て来て、昔の罪を主人公に詫びる。主人公の男は答えて『何事が出来ても恐れないで、互いに進んで行こう。私は死ぬまでこの山を美しくするだろう。 お前は、お前の信じた方に戦ってゆけ、さあ、二人とも腰をかけて祝杯を上げよう。』で幕。
 おそらく戯曲『桃源にて』の主意は武者小路が彼の新しい村(大正七年〔一九一八〕、彼が三十四歳の八月に 始めた、昭和八年〔一九三三〕十五年祭を行った)の仕事に対する感想や抱負を盛ったものであろう。――『新しい村』の十五年祭の時の演説会での長与善郎〈ナガヨ・ヨシロウ〉の話に、武者小路は『桃源にて』の中の「死ぬまではいくら切られても、折られても切られても又生きかえる男であってくれ」の言葉どおり、十五年の間には、相手は王様ではないが、幾度も「切られたり折られたり」したらしいが、又生きてかえる男らしい、という意味の言葉があった。――
 さて、あの二日二晩にわたった大火災が消えた後、殆ど一週間というもの、夜になると、遥か地平に、二た筋三筋死人を焼く赤い煙が見える外に、真の暗闇になった東京に、一日一日彼方【かなた】に此方【こなた】に蛍のような灯火が輝きはじめ、また、彼方の隅に、此方の角に、掃除する音が起こり金鎚の音が聞こえ始めたのを見聞きした時、私は「参るのも人間だろうが、それで折れないのも人間だ。」という『桃源にて』の中の言葉を思い出して、心が明るくなった。
 ある日、ふと、ある商店の前を通りかかると、『今日は十一日です』と大きな紙に書いて硝子戸に張りつけてあるのを、道行く人々は悉く感慨深そうに読みながら通るのであった。ある日は又、夕方、ある焼け跡の町を通っていると、焼灰山〈ヤケバイヤマ〉と見過ぐしたものの中から不意に人声が聞こえたので、その方を注意して見ると、そこに焼亜鈴板で造った蒲鉾形〈カマボコガタ〉の小屋があって、中に妻らしい女が壊れた瓦を積んで拵えた竈に鍋をかけている側に、夫らしい男が、頻りに薪にする木を割っているのを見出だした。それもこれも『桃源にて』の中の老人が『この小さい芽を出す、その勇気に感心し、この小さい芽の美しさに感心すれば、それだけでどれ位美しいものか知れない。私は、この桃源に礼拝する。』と云った言葉を思い出し、私も亦、『桃源にて』の中の老人にならい、それ等に向かってお辞儀する気にさえなった。
 武者小路は、よく、その感想文の中で、人類に力を与える芸術とか、人類に喜びを与える文学とか、いう言葉を使う。その通り、折りも折り、ちょうどこのような危急の秋〈トキ〉に、偶然九月に発表された彼の戯曲『桃源にて』を読んで、私はこの際多くの悩み傷ついている東京の人々にこの『桃源にて』を一冊ずつ配って廻りたいとさえ思った。――
『桃源にて』は、武者小路が謂う所の『歓喜の文学』には当て嵌まらないが(彼自身は『三和尚』 がそれに当て嵌まると云っているが)私自身の経験で以上のような感銘を受けた。もっとも、これ は、大地震の時に読んだという条件を取ると、彼の作品の中では勝れたものではないかも知れないが、その代り、彼の謂わゆる『童話的』なところは十分にある。――

 昨日および本日、紹介したのは、エッセイ「武者小路実篤」の一部である。しかし、この部分だけで、完結したエッセイになっている。そこでは、関東大震災の体験を書くかに見せて、実は、武者小路実篤の『桃源にて』の詳しい紹介をおこない、また、武者小路の文学が、「人類に力を与える芸術」であり、「人類に喜びを与える文学」であることを、自分の体験に引きつけながら説いている。
 私は、この巧みな構成のエッセイを味読するとともに、宇野浩二という小説家の一面を知ったような気がした。辛口の批評で知られる宇野浩二が、武者小路の『桃源にて』については、ほとんどベタボメである。しかも宇野は、「人類に力を与える芸術」、「人類に喜びを与える文学」ということを、文学を評価する基準にしているように見える。意外といえば意外だが、納得できるような気もしたことであった。

今日の名言 2019・9・4

◎焼灰山と見過ぐしたものの中から不意に人声が聞こえた

 宇野浩二のエッセイ「武者小路実篤」に出てくる言葉。上記コラム参照。

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