◎陛下は、此の頃、神経衰弱の御気味で……(賀陽宮恒憲王)
この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一五日の日記を紹介する。
十五日夜
中川良長〈タカナガ〉男来訪
中川男は賀陽宮〔恒憲王〕殿下のお使として来れるなり。以下、賀陽宮殿下の御言葉。
来る十七日、朝香、東久邇両宮殿下、軍事参議官の資格で統帥部の教化に就て上奏せられることになっている。その主たる内容は、伏見元帥宮〔伏見宮恭博王〕殿下を陸海両軍の統帥となさせられんことを願うというにある。
(註、前記三殿下上奏の事が、かく発展したるものとみゆ)
陛下は、此の頃、神経衰弱の御気味で、往々、非常に昂奮遊ばされる。高松宮殿下が何か御熱心に上奏されると「無責任の皇族の話は聴かぬ」と仰せられたりする。自分もこういうことでは、陛下を御輔翼し奉る訳に行かないから皇族を拝辞しようと思ったが、東久邇宮殿下に慰留された云々。
注1 賀陽宮 邦憲〈クニノリ〉王第一男子恒憲〈ツネノリ〉王。陸軍中将。東京師団長。東條内閣退陣直前、任期わずかに三カ月で陸軍航空総監部付に転出、終戦当時は陸軍大学校長。戦後二十二年〔一九四七〕二月皇籍を離脱、賀陽家を創立。
注2 軍事参議官 重要な軍務について天皇の諮問に応じる軍事参議院のメンバー。同院は 元帥、陸相、海相、参謀、軍令部両総長と特に親補〈シンポ〉された将官で構成していた。東久邇稔彦王、朝香宮鳩彦王は終戦時まで軍事参議官をつとめた。