礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

内大臣と重臣と会合することは困難なり(木戸幸一)

2019-09-24 02:45:54 | コラムと名言

◎内大臣と重臣と会合することは困難なり(木戸幸一)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一七日午前九時三〇分の日記を紹介する。

一七日午前九時三十分
  岡田〔啓介〕大将来訪

 大将は松平〔康昌〕秘書官長を通じ内大臣〔木戸幸一〕と連絡したるところ、木戸内府の意向として、
  一、内大臣と重臣と会合することは困難なり。
  二、重臣の上奏を内大臣が取次ぐことも困難なり。
  三、重臣が直接拝謁【はいえつ】、上奏せんと欲せば喜んで、これが斡旋【あつせん】に任ずべし。
 と言い来たれりとて、
  此の間の話とは違うので、内大臣の真意が判らない。仮りに重臣が上奏しても、改造が出来て仕舞っては、事後の上奏だから御採納になる訳には行くまい。そこで、我々の上奏が済むまで、内大臣の工作で改造を遷延させることが出来ないものか。それ等の点について、ふたたび松平(秘書官長)を通じ内大臣の意向を探って見たいと思う。
 という。
 然し、かくては松平、木戸、木戸、松平、岡田というが如く、転々又転々して、いたずらに時を移し、益々時機を失するおそれあるをもって、予〔近衛文麿〕が「直接内府の真意を確むべし」と提議せしに、大将は「是非そうお願いす」という。 此〈ココ〉において直ちに木戸内府に交渉し、同日午後四時面会を約す。
 なお、岡田大将の話によれば、
 既に海軍の切崩し始まりおる由〈ヨシ〉なり。即ち、野村大将が新海相に内定するや直ちに岡〔敬純〕軍務局長の発案にて、
  一、末次〔信正〕大将を現役に復する事。
  二、米内〔光政〕大将を海軍以外の閣僚に迎うる事。
 の二条件を政府に提出し、岡局長は政府に対して、これを鵜呑【うの】みとすべしと章要する慫慂【しようよう】したりと。此の案は海軍側の要望にそう形を具【そな】わることだけは間違いなし。

注1 野村直邦海軍大将。昭和十五年〔一九四〇〕、駐独主席軍事委員としてドイツに駐在、十八年〔一九四三〕帰国、大将、呉鎮守府司令長官。十九年〔一九四四〕七月十七日、東條内閣の海相更迭で嶋田〔繁太郎〕大将の後任となるが二十二日、同内閣総辞職で米内大将と代わる。在任期間わずか五日。その後、軍事参議官。鹿児島県出身。
注2 岡敬純〈タカズミ〉 海軍中将、海軍省軍務局長。昭和十五年、軍務局長となり、太平洋戦争中期まで在任、十九年、鎮海警備府司令長官に転じ、後海軍次官。

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