◎中川良長男爵邸へ東久邇宮殿下の御来訪を仰ぐ
共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月八日「午後」の日記を紹介する。
同日午後
麻布中川良長〈タカナガ〉男邸へ東久邇宮殿下の御来訪を仰ぎ拝謁【はいえつ】
木戸〔幸一〕内府と相談せる「東條に自信出来〈シュッタイ〉せりや如何」の質問を言上し、殿下に東條御引見を御願いせり。殿下は
東條は甘く〈ウマク〉逃げるだろう。
予 逃げられぬように突っ込んで聞いて戴きたい。
殿下 よく研究していかなければなるまい。
と慎重なるお答なり。なお、内府が最後の場合「高松宮殿下より殿下〔東久邇宮〕が御適任なり」と話しいたりと言上せしに殿下は、
伏見元帥宮〔伏見宮恭博〕はどうだろう
との御言葉。予は「伏見宮殿下は御老年なれば、矢張り殿下をおいて他に御適任なし」と申上げ置きたり。東條詰問のことは結果を当方へ御通報を賜うことになりおれり。
注1 中川良長男爵邸は東京麻布本村町〈ホンムラチョウ〉にあった。同男爵は貴族院の男爵議員の幹事役で、政界上層部についての情報通で知られていた。
注2 東久邇氏の同日の日記は次のような書き出しで始まっている。
午後三時半、中川良長来たり「近衛公と木戸内大臣が話し合った結果、近衛は至急私に会いたいとのことであるが、近衛は最近憲兵隊の監視が厳重だから、中川の邸で会ってく れ」という。よって中川と私と同乗して、中川の邸に行き、近衛と会う。
注1および注2は、共同通信社の浜田寛、横堀洋一の両記者によるものである。注2に「中川と私と同乗して」とあるが、この車は、近衛文麿が差し回したものであろう。それにしても、近衛文麿の素早い行動力に驚かされる。
※一昨日および昨日のコラムで、〝一九四四年(昭和一九)七月五日「午前十時三十分」の日記〟としたのは、〝一九四四年(昭和一九)七月八日「午前十時三十分」の日記〟の誤りでした。すでに訂正済みですが、お読みになった読者に、お詫び申し上げます。