礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

首相経験者と現職の枢密院議長を重臣と呼ぶ

2019-09-27 00:05:09 | コラムと名言

◎首相経験者と現職の枢密院議長を重臣と呼ぶ

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。当ブログで、この日記を最初に紹介したのは八月一四日のことで、この日は、「昭和十九年七月五日」という日付のある「まえがき」と、同年「六月二十一日午後四時」の日記を紹介した。
 この「まえがき」には、「注1 マリアナ沖海戦」と、「注2 荻外荘」という「注」が付いていたが、紹介は割愛した。
 また、「六月二十一日午後四時」の日記には、「注1 東條英機」、「注2 重臣会議」、「注3 若槻礼次郎」、「注4 マリアナ沖海戦についての、大本営発表」、「注5 岡田啓介」という計五つの「注」が付いていたが、これらの紹介も割愛した。
 しかし今にしてみれば、「注2 重臣会議」は、割愛すべきでなかったと思う。本日は、補足として、これを紹介しておくことにしたい。なお、同書の注は、共同通信社の浜田寛、横堀洋一の両記者が執筆している。

 注2 重臣会議 首相経験者と現職の枢密院議長を「重臣」と呼び、それらの人たちの会合を一般に「重臣会議」と称していた。
 昭和十五年〔一九四〇〕十一月、最後の元老西園寺公望〈サイオンジ・キンモチ〉公爵が九十二歳で死去したあとは、政変などの際、内大臣がこれらの人を招集、次期内閣の首班候補を協議、天皇に候補者を推薦していた。開戦以来、時折り首相が重臣と懇談、戦況を報告していたが、十八年〔一九四三〕十月ごろから逆に重臣側が首相を招いた。その後政府、重臣が交互に主催して毎月一回開かれた。当初、東條首相は大蔵、外務両相を会合に同伴して出席したため、重臣側は突っ込んだ見解を首相自身から聞けなかったが、十九年〔一九四四〕二月ごろになって首相が単独で出るようになった。当時、重臣といわれていたのは近衛文麿、岡田啓介、若槻礼次郎、平沼騏一郎、阿部信行、広田弘毅、米内光政の元首相と原嘉道枢密院議長。

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