礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

斯界の大先達、春日先生の謦咳に接した(築島裕)

2021-05-17 03:02:20 | コラムと名言

◎斯界の大先達、春日先生の謦咳に接した(築島裕)

 築島裕『古代日本語発掘』(學生社、一九七〇)を紹介している。本日は、その三回目で、「訪書旅行」について回想しているところを紹介する(六六~七一ページ)。

 昭和二十三年〔一九四八〕九月に卒業、直ちに大学院に入った。旧制は無試験で、単位を取る必要もなく、呑気なものだった。連日研究室に出入して本を見ていた。
 翌二十四年〔一九四九〕四月から日本育英会の大学院の奨学生として奨学金を交附されることになり、同時に 研究室に勤務を始めた。仕事は助手の事務補助と国語学会の事務とであった。先輩の山田俊雄氏が助手で、毎日机を並べて仕取をしていた。国語学会はまだ草創時代で、雑誌『国語学』の刊行も軌道に乗らず、仲々大変だった。
 始めて訪書旅行の体験をしたのは、この期間であった。昭和二十四年の夏に、中田〔祝夫〕先生のお伴をして、京都の東寺と知恩院とを訪れた。前後数日間の調査であったが、先生から親しく経巻〈キョウカン〉の取扱い方、資料としての鑑定の仕方などを承った。知恩院では牧田諦充〈マキタ・タイリョウ〉先生の御世話になり、東寺では、故山本忍梁〈ニンリョウ〉猊下〈ゲイカ〉のお世話になった。経箱〈キョウバコ〉を幾つか出して下さって、経箱というものを始めて実際に見ることが出来たし、又、古来、訓点資料というものが、どのような状態で保存されて来たものなのかということなども、始めて知ることが出来た。
 昭和二十七年〔一九五二〕夏には、仁和寺を訪れ、故小川義章〈ギショウ〉猊下のお世話になった。この折は、広浜文雄氏、小林芳規〈ヨシノリ〉氏と一緒だった。次いで二十八年〔一九五三〕には薬師寺の調査を行った。中田先生のお伴で小林氏と私と三人の一行であった。橋本凝胤〈ギョウイン〉長老や、高田好胤〈コウイン〉管長には、この折始めて拝眉の機を得た。薬師寺で二週間程滞留して、経蔵〈キョウゾウ〉の整理を奉仕したが、その折、西大寺、唐招提寺、興福寺などにも参上した。
 東大寺図書館には、昭和二十五年〔一九五〇〕頃始めて伺った。その折は、確か中田先生のお伴で参上したと思うが、その後はしばしば一人でお邪魔した。
 昭和二十八年秋には、奈良正倉院の曝凉【ばくりよう】の際、春日政治〈カスガ・マサジ〉先生、遠藤嘉基〈ヨシモト〉先生、中田祝夫〈ナカダ・ノリオ〉先生などのお伴をして、正倉院聖語蔵〈ショウゴゾウ〉の経巻の調査を許された。斯界の大先達、春日先生の謦咳【けいがい】に接することが出来たのは、無上の感激であった。又、その折、宿所の日吉館の部屋で、訓点語学会創立の話会いが定ったことは、忘れられない思い出である。その春日先生も昭和三十六年〔一九六一〕に逝かれて、もう十年近く経った。転【うた】た感無量である。
 さて、昭和二十七年四月から中央大学文学部に就職して、始めて教壇に立った。三十年〔一九五五〕三月から 東京大学教養学部へ移り、そこで九年ほど過し、三十九年〔一九六四〕四月から現職東京大学文学部へ転任になった。この間、殆ど連年、訪書旅行をして来た。多くは夏休の間だったけれども、時には春秋の頃にも出掛けた。その他学会や溝演などで、年に数回は旅行して歩くようになった。
 このようにして、大学卒業以来二十余年が過ぎた。古寺の中には、未だ採訪の機を得ない所も極めて多いけれども、既に訪れた寺院、図書館、個人の蔵書家など、数十箇所に及んだ。実見した書籍の点数は数え切れないけれども、平安時代、鎌倉時代の訓点本だけに限って見ても、約二千点に上っている。この間、私のこの訪書の希望を快諾され、格別の御厚情を示された幾多の所蔵者管理者の方々に対しては、感謝の念で一杯である。又、永年の間私のこの研究を指導して上さった東京大学名誉教授の故時枝誠記先生、東京教育大学教授の中田祝夫先生、この御二方は私の恩師であり、私の研究が曲りなりにも今日の段階まで進んで来たのは、専らこの師恩によるのである。又、九州大学名誉教授故春日政治博士、京都大学名誉教授・親和女子大学長遠藤嘉基博士、島根大学教授大坪併治〈オオツボ・ヘイジ〉博士、奈良教育大学教授鈴木一男氏、九州大学助教授春日和男博士、天理大学教授広浜文雄氏、京都府立大学教授吉田金彦〈カネヒコ〉氏、広島大学助教授小林芳規氏、静岡女子短大教授稲垣瑞穂氏、滋賀大学助教授曾田文雄〈ソダ・フミオ〉氏、四天王寺大学助教授門前正彦〈カドサキ・マサヒコ〉氏、同志社大学附属高校教論松本健二氏などの先学同学の方々の学恩も深く測り知れないものがある。これらの方々は、何れも訓点語学会の主要メンバーで、昭和二十九年〔一九五四〕の学会創立以来、毎年の学会の度毎に大きな啓発を受けて来た。殊に小林芳規氏は、中田先生と同門〔東京文理科大学〕の誼【よしみ】で、昭和二十七年以来、しばしば訪書の旅行を共にした間柄となった。訪書の際は概して時間が限られているものであって、二人で調査の方針を細目打合せた上で手別〈テワケ〉して仕事をし、あとでノ卜を交換して写せば、能率は倍増するのである。この他、国語史学関係の先輩、同学の方々は、一々御名前を記す遑【いとま】はないけれども、高等学校〔第一高等学校〕時代から御指導を賜った岩淵悦太郎先生、大学時代の金田一春彦先生、先輩の亀井孝教授、林大〈ハヤシ・オオキ〉氏、松村明教授、大野晋博士、〔東京〕教育大の馬淵和夫〈マズチ・カズオ〉博士、福島邦道教授、京都大の浜田敦教授、阪倉篤義〈アツヨシ〉博士、小島憲之博士、寿岳章子〈ジュガク・アキコ〉教授、塚原鉄雄助教授、慶大の阿部隆一〈リュウイチ〉博士などの学恩を忘れることが出来ない。
 又、これら探書の際に私をお連れ下さって、実地に色々な面で御指導を賜った、中田祝夫先生、山岸徳平先生、長沢規矩也〈キクヤ〉先生、宝月圭吾〈ホウゲツ・ケイゴ〉先生、佐和隆研〈サワ・リュウケン〉先生などの御恩も忘れることが出来ない。京都建仁寺の島原泰邦氏は、令息が小林氏の教え子であったという因緑から、しばしば京都でのお宿を賜り、又、高山寺、京都国立博物館、興聖寺〈コウショウジ〉など、諸処へ御紹介の労を惜しまれなかった。その御厚情に対しては、どれ程お礼の言葉を捧げても足りないほどである。
 訓点本の閲覧に至る手続、閲覧の際の礼儀作法から始って、文献の価値の鑑定の要領、その調査の心得など、諸先生の御指導によって、始めて習得することが出来た。このような勉強は、教室の講義や演習だけでは、決して体得出来るものではない。直接資料に当って、手を取って教えて頂くより他に方法はないと断言してもよい。他の学問のことはよく知らないが、考古学の発掘や、臨床医学での手術の方法なども、恐らくこのように、実地に臨んで師の教を仰がなければならないものが多いように感ずる。近頃問題にされている所謂マスブロ教育のような、単なる機械的な教育などでは、決して得られるものではないと思う。

 途中から、「あとがき」風の謝辞に化してしまっているが、当時の訓点学関係者が網羅されているので、あえてそのまま、引用した。
 文中に、調査のため薬師寺を訪れ、二週間ほど滞留したとある。このときのことは、あとで、やや詳しく語られる。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2021・5・17(8位になぜか戸坂潤)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする