礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時枝誠記による解説「橋本進吉博士と国語学」

2021-05-09 04:17:44 | コラムと名言

◎時枝誠記による解説「橋本進吉博士と国語学」

 昨日、述べた通り、橋本進吉著作集第一巻『国語学概論』(岩波書店、一九四六一年二月)の「解説」は、時枝誠記(ときえだ・もとき)が担当している。
 この解説は、「橋本進吉博士と国語学」、「国語学概論」、「国語学研究法」、「国語学と国語教育」、「国語と伝統」の各項から成り、全十六ページ。うち、「橋本進吉博士と国語学」が八ページ強を占める。
 本日以降、この「橋本進吉博士と国語学」を紹介してみよう。なお、昨年、根来司の『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)という本を紹介した。その際、根来が、「橋本進吉博士と国語学」について言及している部分を引用したことがある(2020・9・27~28)。

  解 説     時 枝 誠 記

   橋本進吉博士と国語学
 橋本博士の人として又学者としての概略は、既に橋本博士還暦記念会編纂の国語学論集(昭和十九年〔一九四四〕十月岩波書店刊)中の同博士略伝、編著書目録、論文目録、講義題目等により、又「國語と國文學」昭和二十年〔一九四五〕五月の「橋本博士と国語学」特輯号誌上に寄せられた諸家の記事及び追憶談によつてこれを知ることが出来るのであるが、今回橋本博士著作集刊行委員会によつて、博士の著作集が刊行せられるに際して、同博士の国語学上の業績を、主として明治以降の国語学史上に跡づけて、その意義と価値とを明かにして見たいと思ふのである。
 博士の国語学上の研究は、その略伝にも記されてゐるやうに、明治三十九年〔一九〇六〕七月東京帝国大学文科大学言語学科を卒業せられ、同四十二年〔一九〇九〕三月国語研究室助手を拝命せられ、昭和二年〔一九二七〕四月上田萬年〈カズトシ〉博士が定年退官の後を承け、教授として同大学国語学国文学講座を担任せられて以来、昭和十八年〔一九四三〕三月定年を以て退官せられるまで、凡そ三十四年の永きに亘り、殆ど全く国語研究室を中心としてなされたのであるが、その研究の意義と価値とを知るためには、一応明治の国語学の性格とその歴史とを顧みることが必要である。
 国語に対する研究が、真に科学的体系を目指して、独立した一科の学として組織せられるやうになつたのは、明治になってからのことであるが、その部分的断片的研究は、それ以前に全然なかったわけではなく、或る部分については、相当の輝かしい成績を収めて来たのである。しかしながら、明治以後とそれ以前の国語学との間には、著しい性格の相違が認められるのである。明治以前の国語研究は、主として奈良・平安朝の古典の解釈或は和歌文章の制作を目的としての研究であつたのに対して、明治以後の国語学は、当代の文明開化の風潮によつて刺戟せられた国語の改革改良に関する諸問題即ち国語の將來の運命に関する諸問題の解決といふ重要な使命を荷つて生まれたものである。そしてその研究の問題、領域、方法としては、在帰来の国学者のそれを蟬脱して、西洋言語学のそれに立つて、新しい科学としての国語学を建設することにあつた。このやうに明治の国語学は過去の国語研究の伝統を破棄するところにその第一歩を踏み出したので、それ以後の国語学は、全く西洋言語学の基礎の上に立って展開したものであつた。この新国語学の創設者の有力な一人は、上田萬年博士であつて、博士は一方に言語学国語学を東京帝国大学に講ぜられるとともに、その言語理論を武器として、国語問題の解決に努力せられた。橋本博士は、実にこの上田博士の門下として国語学を継承され、又発展させられたのである。ところが周知のやうに、上田博士の国語学と、橋本博士のそれとは、その性格に於いて著しく相違してゐることが認められる。上田博士の国語学は、博士の多面的な生活が示すやうに、啓蒙的ではあるが、国家的であり社会的であり、極めて絢爛たるものであるが、これに反して橋本博士の国語学は、これ亦博士の経歴が示すやうに、ひたすら研究室的であり、学究的であつた。啓蒙的にして多彩な上田国語学が、学究的にして質実な橋本国語学へと発展して行つたことは、国語学界にとつては大きな幸福であつたと考へられるのであるが、これを単に両博士の性格、経歴の相違とのみ考へるのは皮相の見〈ケン〉に止まるとしかいふことが出来ない。既に述べたやうに、創建当初の国語学は、一方に国語の実践に関する国語問題と密接な関連を持つと同時に、その学問的基礎を西洋言語学特にインド・ヨーロッパ語族を対象とする印欧言語学に仰いだ。そして国語学が漸く独立した科学の体系を整へ備へるに従つて、それが如何なる方向をとつて廻転し始めたかといふのに、先づ第一に国語問題との分離であり、第二に西洋言語学の新しい傾向による国語学の修正であつた。国語問題は単に学者の革新的な情熱だけでは解決されない。何よりも先づ国語に対する認識が確立されなければならないといふ見地から、対社会的なさういふ実践運動から手を引いで、次第に純粋な学問的領域に立籠らう〈タテコモロウ〉とする傾向が濃厚に現れて来た。それは国語学が、学としての独自の立場を自覚するややうになつて来た当然の結果であるとも見ることが出来るであらう。これを具体的にいふならば、創建当初の国語学に負荷さおた国語問題解決への使命を離れて、西洋言語学の一分科としての体系を樹立することに努力が傾けられたといふことが出来る。こゝに明治中期以後の華々しい国語学的業績が実を結ふことになつたのである。即ち印欧言語学の中心題目である比較研究法に基く言語系統の研究及び歴史的研究を移して、我が国語に於ける系統の問題並に国語の歴史的変遷に対する研究が栄えるに至つた。上田博士の国語学を直接間接に継承せられた当時の多くの新進の国語学者が、如何にこれらの研究に努力したがは、当時の業績を一見すれば明かなことである。明治三十五年〔一九〇二〕に設立された国語調査委員会の任務は、専ら国語問題の解決のための調査にあつたのであるが、同会に於いて調査研究せられた事項は、一見何等それら実践問題とかゝはりのない、純学術的研究、特に歴史的研究の業績が大部分を占めてゐることを見ても、その間の事情を察知することが出来ると思ふのである。国語問題解決への情熱から、国語学の学的建設、特に国語の歴史的研究の確立への学問的努力へと進んで行つたことは国語学発展の第二段階を性格づけるものであつて、橋本博士は、実にこのやうな時代に、国語学に発足せられたのである。博士はその還暦記念式の席上に於いても、博士の国語学へのそもそもの憧憬が、言語の奥に秘められた理法の探求にあつたと述べて居られるし、又大学在学中、ヘルマン・パウルの言語史原理が如何に深い肝銘を与へたかを述懐せられてゐるところから見ても、博士は、洵に国語学の学問的建設に於いて、上田博士を継承せられるにふさはしい後継者であつたといはなければならないのである。【以下、次回】

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