礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝から弁当持ちで中田先生のお宅に坐り込んだ(築島裕)

2021-05-16 02:37:07 | コラムと名言

◎朝から弁当持ちで中田先生のお宅に坐り込んだ(築島裕)

 築島裕『古代日本語発掘』(學生社、一九七〇)を紹介している。本日は、その二回目で、「中田祝夫先生」との出会いについて書いている部分を引いてみよう(六一~六三ページ)。
 中田祝夫(なかだ・のりお)は、当時、東京文理科大学助教授で、その後、東京教育大学教授、筑波大学教授などを歴任した(一九一五~二〇一〇)。

 東京教育大学の中田祝夫先生(その頃はまだ旧制大学の時代で、先生は東京文理科大学の助教授であられた)は、戦争中から雑誌に論文を書いておられた。その数はあまり多くはなかったけれども、その御研究の奥深いらしいことは、論文に引用された文献が極めて多く、又その立論の精緻なことから推測された。又その頃、国語学会の公開講演会で、「昔の片仮名」と題して、片仮名の字体に流派によって特徴があることを論ぜられたことがあった。その際の資料は極めて豊富であり、論旨も緻密であって、聴衆に深い感銘を与えられたものであったが、一介の学生であった私は、自分のような思い付きなどは机上の空論で、中田先生のように厖大な資料を扱われた目から見られたら、一たまりもなく崩れ去ってしまうようなものではあるまいかと、心ひそかに悩んだものであった。
 そのような或る日、研究室で編輯している雑誌「国語と国文学」の誌上に、中田先生の論文が載ることになって、その校正刷を先生の許へお届けするという役目を仰せ付かり、恐る恐る鷺の宮のお宅へ伺ったことがあった。これが、個人的に先生にお目にかかった最初の機会であった。
その後、しげしげと先生のお宅に参上するようになった。その頃、先生の大著『古点本の国語学的研究 総論篇』の原稿が、未だ刊行されないままで堆【うずたかく】く積まれていた。厚かましくも私はそれを拝見し、ノートを取らせて頂くことになった。朝から弁当持ちで一日坐り込んでいたりして、随分御迷惑をおかけしたものと、恥しく思う程である。
 その内、中田先生は東京大学文学部に講師として出講されることになった。昭和二十三年〔一九四八〕四月のことである。その頃私は丁度卒業論文執筆の最中であった。毎日朝七時頃から夜十二時頃まで、食事の他は殆ど休み無しに机に向っていた。私は昭和二十年〔一九四五〕四月に入学したのだが、八月の終戦までは軍隊にいたから、復学した、というより始めて大学の門を潜って講義を受けたのは、昭和二十年の十月からだった。終戦直後は、次々と復員して来る学生のために、便宜的に一年が二期に分れ、卒業式が三月と九月と二度あった。学年単位試験も、三月と九月との二回あった。平素ならば、卒業論文の提出期限は十二月二十五日であったが、私は二十年十月から満三ケ年在学ということで、二十三年九月卒業、その為の卒業論文の締切は六月三十日だった。四月頃からは毎日二十枚か三十枚位ずつ仕上げて行くのを日課として頑張っていた。執筆用の資料の大半はノートとカードだった。本は買えなくて殆ど持っていなかったので、研究室へ出かけなければならなかったが、始終出掛けたのでは仕事にならないから、一週に一日位に定めておいた。四月からは中田先生の講義がある毎水曜日をその日と定め、午前中に先生の講義を伺い、午後から研究室で調べ物をすることにしていた。
 中田先生には、自分の思い付いたことなど恐る恐る申上げたりしたこともあったと思うが、先生は貴重な未公開の莫大な資料を貸与して下さったりして、学生の身分である私は本当に恐縮した。しかし前に述べた見通しが、いくらかの例外はあるにせよ、ひどく見当外れのことでもないらしいことを、それら拝借の資料などからも気附いて来て、心の中で少し安心したりしていた。

 文中、『古点本の国語学的研究 総論篇』とあるのは、のちの一九五四年(昭和二九)年に大日本雄弁会講談社から刊行された『古点本の国語学的研究〔第1〕(総論篇)』を指す。
 また、「前に述べた見通し」とあるのは、漢文訓読に用いられる語彙には、それ特有のものがあるのではないかという見通しを指している。
 なお、中田祝夫は、一九五八年(昭和三三)に、博士論文『古点本の国語学的研究総論篇』を東京教育大学に提出し、文学博士となった。【この話、続く】

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