礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山科トンネル・東山トンネルで煤煙に悩まされた(築島裕)

2021-05-18 03:23:27 | コラムと名言

◎山科トンネル・東山トンネルで煤煙に悩まされた(築島裕)

 築島裕『古代日本語発掘』(學生社、一九七〇)を紹介している。本日は、その四回目で、最初の訪書旅行のことを回想しているところを紹介する(七七~八〇ページ)。

 昭和二十四年〔一九四九〕の夏、中田祝夫〈ノリオ〉先生の御供をして、京都の知恩院と東寺に古訓点の調査に赴く機会に恵まれた。これは私にとって生れて初めての訪書旅行であった。戦前から戦争中にかけて少年時代を過した私にとっては、他の同じ世代の人々もそうであるように、あちこちの名所旧蹟を旅行して歩くという自由が与えられていなかった。昭和二十四年といえば、やっと汽車の切符が自由に買えるようになった頃であるが、まだ食糧は十分でなく、旅行は困難であった。丁度その頃、叔父が大津の銀行に勤めていて、その家が膳所〈ゼゼ〉にあったので、そこに止宿して、数日の間、膳所から京都まで通ったが、シートの破れたボロボロの客車、有蓋貨車を客車に改造した車で、窓が殆どない物凄い代物〈シロモノ〉に乗ったことなど、今でも記憶に残っている。又東海道線は全線電化以前で、山科トンネル、東山トンネルの中で、暑いさ中に煤煙に悩まされたことも記憶に新しい。
 その頃の東京はまだ戦災の焼跡がまだ整理し切れず、荒凉たる有様だったが、戦災を受けなかった京都の町は落着いていて、いかにも古都にふさわしい感じであった。もともと名所旧蹟などは殆ど歩いたことがなかったから、ましてや、大寺〈オオデラ〉の寺務所や庫裡【くり】などを見るのは始めてであった。焼け出されて狭い家に不自由な暮しをしていた頃だから、大広間や広々とした廊下などに入るだけでものびのびとした感じがした。
 大きな寺の中は、真夏でも暗いものである。庇【ひさし】近くの板間などに机を持出して拝見するのだが、それでもさほど明るくはない。しかし却って落着いた古寺の雰囲気があって、趣があるものである。
 東寺で、経箱〈キョウバコ〉というものを初めて見た。大体縦一尺五寸(四五糎〈センチ〉)、横一尺二寸(三六糎)、高さ一尺(三〇糎)位のもので、長さ一尺余りの巻物を収めるのにも工合よく、両手で抱えて持運ぶのにも都合の良いものである。巻子本〈カンスボン〉ならば、数十本、薄い冊子本〈サッシボン〉だと百冊以上入れられる。後年気附いたことだが、何処のお寺でも、大体同じような大きさであるのも、長い間に自然に生出された智恵の産物なのであろう。木材は白木の杉や檜〈ヒノキ〉などで、漆塗など贅沢なものは殆どない。もともと古いお経の中でも、訓点をつけたものは、坊さんたちが精魂籠めて勉強した結果なのであって、質素な学究の備品として、ふさわしいものであったのであろう。
 この一週間の旅行は、私にとって最も有益な、意義深いものであった。お寺への御挨拶の仕方、お経を拝見するときの作法、古経の取扱い方、訓点資料としての価値の有無の見分け方、ノートの取り方など、書物や教室では、絶対に得られない数々の知識を、中田先生から身を以て教えて頂いたのであった。
 「お寺は朝が早く、夕方も早い。朝はいくら早く行っても良いが、夕方は三時半か四時頃にはお暇〈イトマ〉することだ」
というような先生の御ことばも、朝寝坊で夜更しの我々にとっては、殊に適切なご注意であった。今に忘れない思出である。

 文中、「東海道線は全線電化以前で」という言葉があるが、東海道線の全線電化は、一九五六年(昭和三一)。
 この『古代日本語発掘』という本は、今回、引用した箇所以外にも、鉄道関係の記述が多い。著者の築島裕には、『切符の話』(真珠書院、一九六八)などという著書もある。かなりの鉄道マニアだったのだろう。

今日の名言 2021・5・18

◎お寺は朝が早く、夕方も早い

 築島裕が、師の中田祝夫から聞かされた言葉。上記コラム参照。

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