◎挙母のトヨタ工場で梅原博士の歓迎を受ける
雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その二回目。本日、紹介するのは、連載第一回(第三巻第一号、一九五三年一月)の後半。
翌日〔一九五二年一〇月八日〕も雨の中を出発市中行進の後、安倍川橋畔〈キョウハン〉で安倍川餅に舌づつみを打ち、悪路交通止を迂回し、ようやく掛川から磐田〈イワタ〉に出た。
この辺りも新道で、道は巾広くまっすぐに立派な道といいたいが、泥沼のようだ。
ところどころに動けない車がある。こんなところは停らぬように、セコンドギヤで予めスピードを上げて走り抜けた。
アメリカのように金持の国と異り、ローラーで展圧の費用のない?日本では一、二年自動車が走ってふみかためるのを待ってから段々ほそうするのだそうだ。
何のことはない、我々の自動車が、建設省のローラーの代用になるわけだろう。
だから天下の東海道も、自動車を壊すために設けてあるのかと錯覚を起すような状況である。(但し東京―三島間は良い道である)
観光日本の道路はここ数年先のことだろう。
磐田では市と教育委員や先生生徒さんたちが千人余道に五色の紙テープを張って出迎えて下さった。
橋本記者も私もこの大歓迎に感激した。
浜松、岡崎を経て挙母(ころも)のトヨタ工場についたのは夕刻であった。
技術部長の梅原〔半二〕博士他多くの人々の歓迎を受けた。
工場からころもの旅館まで梅原先生御愛用の試作トヨペットを運転してごらんなさいと提供して下さったのには恐縮した。先生を側えおのせして、ほそうした直線道路を思い切り走った。
近くこの種の新車が出るらしいが、このような乗心地なら欧米外車以上だと思った。
翌日久し振りで工場を見学した。
戦前トヨダ織機会社の一隅に自動車部が作られた当時見学し、その後刈谷に自動車組立工場が出現し、先般惜しくも故人となられた、豊田喜一郎氏が、心魂を打ちこんで国産自動車の製造に進まれた当時を回想し、感慨無量であった。
ライフの記者が見学し、正に東洋一、世界屈指(七番目位)の大自動車工場の一つであると折紙をつけられた通り、特に最近充実した輸入工作機械や、型鍛造施設を見ては一そう力強く感じた。優秀な技術家陣と、これだけの向上設備と今後数倍にも拡張できる空地を見ると、洋々たる前途が頼もしく思われる。
トヨペットの優秀な信頼性の裏付けとして立派な工場だとうれしく思った。
後は全員の協力で、さらに安価な車や部品を提供して国産乗用車の名与を回復してほしいと思った。午後出発前の三時間は各種の未だ門外不出の試作車を運転させてもらい、今まで私の運転した、フォードコンサル、オペルオリンピヤ、モーリスマイナー、フィアッ 500C、シムカ、プジョー,シトロエン、ルノー、ビュイック、シボレー、フォード、リンカーン、マーキュリー、スチュードベイカー、ポンテアックなどとも比較してみた。
私はこのような国産車が一日も早く安価に提供される日を願いトヨタ工場とお別れし名古屋に向った。全員手を振って見送って下さった。
連日の雨も上って、秋晴れの郊外を朝日新聞社名古屋支局のニュースカーに先導されて名古屋市に入り、東山動物園の歓迎会場に到着したのは夕刻暗くなるころであった。
名古屋城の金のしゃちほこが見えなくなったのは淋しいが、名古屋の街は美しく整って中部日本復興の一端を語るようであった。
晩は名古屋名物かしわの笹身に舌づつみを打ちながら、朝日支局の人々と日本の今後について語り合った。 (つづく) (筆者 運輸省自動車局車両課技官)
文中、「挙母」とあるのは、当時の挙母市。一九五九年(昭和三四)に「豊田市」と改称。
トヨタ工場技術部長の「梅原博士」とは、梅原半二(一九〇三~一九八九)。トヨペット・クラウンの開発にあたったとされる。「梅原先生御愛用の試作トヨペット」とあるのは、トヨペット・クラウンの試作車のことであろう。ちなみに、梅原半二は、哲学者の梅原猛(一九二五~二〇一九)の実父として知られている。
名古屋城は、一九四五年(昭和二〇)五月一四日の空襲で、その大半が焼失。「金のしゃちほこ」が見えなくなっていた。