◎昼休などは談論風発、時には時枝先生も加わって
一二日のブログで紹介した「橋本進吉博士著作集の刊行について」という文章には、「国語研究室」という言葉が、二度、出てくる。東京大学の文学部国語研究室のことである。
数日前、たまたま築島裕(つきしま・ひろし)の『古代日本語発掘』(學生社、一九七〇)という本を手に取ったところ、「国語研究室」、「国語研究室会」という言葉が出てきた。国語学者の築島裕(一九二五~二〇一一)は、戦後、東京大学文学部国語国文学科に入学し、時枝誠記(ときえだ・もとき)に師事したという。
築島が「国語研究室」時代を回想しているところを引いてみよう(五三~五五ページ)。
私は昭和二十年〔一九四五〕に東京大学に入学した。しかし、その年の三月から終戦の時まで、海軍航空隊にあって、大学生として校門をくぐることが出来たのは、戦争が終った年の秋からであった。国語学をやりたいという気持は大学入学前から持っており、又、漠然と古代語をやって見たいという気もしていたが、未だ具体的にどんなことをするかについては、全く目当てもなかった。
本郷の文学部国語研究室は幸に戦災を免れていた。又、その貴重な蔵書も、一時長野県か山梨県辺に疎開してあったが、それも無事に戻って来た。研究室は、その前々年〔一九四三〕に京城から来任された時枝誠記【もとき】先生の許に、大野晋〈ススム〉博士 (現在学習院大学教授)や永野賢〈マサル〉氏(現在東京学芸大学助教授)や山田俊雄氏(現成城大学教授)がおられた。正規の講義や演習の他に、これら先輩の指導される研究会や、国語研究室会という先輩・学生を含めた研究会もあって、我々学生は随分忙しかった。戦後の食糧難時代だったから、殺人列車に乗って芋の買出しなどにも出掛けねばならなかった。年中空き腹を抱えているような生活だったけれども、研究室は活気に満ちて居り、昼休などは談論風発、時には時枝先生も加わって下さったりして、実に気持の良い研究室だった。一方、昼休以外は 談話禁止、図書の貸出は一切禁止というような厳格な面もあったが、研究室に行けば何時でも必ず必要な本はある、又静粛で落着いて勉強出来るということで、それらは、我々の勉強する気構えのために非常に良いことであったと思っている。
東京大学国語研究室は、上田万年【かずとし】博士が、欧州留学から帰朝されて、ドイツの大学制度に範を取り、明治三十年〔一八九七〕に日本で始めての研究室を創設されたという伝統を誇っている。不幸にして大正十二年〔一九二三〕の関東大震災の厄〈ヤク〉に遭って、多くの蔵書が灰燼に帰したが、その後、上田博士、及びその後を嗣がれた橋本進吉博士などの御尽力によって、追々蔵書も充実し、又、諸所から貴重な資料を借出して多くの影写本が作成されていた。国語学関係の研究文献などは主要なものは網羅されているし、写真複製本の類もよく揃っていた。
訓点資料というものがあることは、大学に入る前から知っていたから、研究室にある幾つかの実物を見て非常に興味があったし、複製本や影写本で訓点資料も相当にあったから、片っ端からそれを写したり、語彙のカードを取ったりして見た。春日〔政治〕博士の大著が出て間もなくの頃であったし、 遠藤〔嘉基〕博士・中田〔祝夫〕博士などの論文や学会での発表など、格別に興味深く伺った。
国語学の理論的な面については、時枝先生の御説が、私の基本的な考え方の決定的要因となった。訓点――訓読ということが、国語の表現、理解という行為の中で、どのような位置を占めるものか、その言語的性格を規定するに際しては、話手――訓読者の言語意識というものを、どのように捉うべきか、このような問題を設定し、又それに対決しようとしたのは、専ら時枝先生の理論たる、言語過程説の立場によるものであった。
文中、「春日博士の大著」というのは、春日政治(かすが・まさじ)が、戦中の一九四二年(昭和一七)一二月に出した『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』〔乾・坤・索引〕(斯道文庫蔵版、岩波書店発売)のことである。
築島裕は、漢文の読みを示す符号「訓点」の研究者であり、この『古代日本語発掘』という本も、古い経典などの「訓点資料」を発掘してきた体験をまとめたものである。最初に読んだときは、話があまりに専門的で、途中で投げ出してしまったが、今回、読みなおしてみると、けっこう面白かった。特に、著者が次第に研究に没頭してゆくところ、「訓点資料」を求めて各地に出かけるところが興味深かった。
なお、引用した部分の最後で築島は、自分の訓点研究は、時枝誠記の言語過程説に立っている旨を表明しているが、本書で言語過程説に言及しているのは、この部分だけで、あきらかに説明不足である。【この話、続く】