礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

わしは陸軍の動きも知っていた(光行検事総長)

2022-01-24 19:33:45 | コラムと名言

◎わしは陸軍の動きも知っていた(光行検事総長)

 茂見義勝著『検事の目』(近藤書店、一九五〇)から、「あのときのことども」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

      
 その日暗くなつて、検事一同は大審院の検事総長室で、総長〔光行次郎検事総長〕と面会した。もう一切を松阪検事に委せてあるので、今更面会する必要はないとも思われたが、これは総長の方から是非会つて話したいというのであつた。情勢に驚いた上席検事等の智慧で企てられたのかも知れないが、とに角総長の話も聞くだけは聞こうということになつたのであつた。
 大阪の検事長から迎えられて東京へ出て、検事総長になつた此の人は、東京の検事には親しみが薄かつたが、それでも区検の食堂などへ顔を出して、「士は殺すべし恥しむべからず」といつたような話などをするので、若い者には頼母しげな印象を与えて、「虎」という愛称さえ貰つていた。私にとつては少年時代に長崎で、父が同じ役所で判事、彼が検事というわけで、家族は親しく交際する間柄で、ことに例のお諏訪さんのお祭りになると、社の前のその家の二階に招かれて、目の前を通る「さかほこ」を眺めるのを楽しみにした、という思出につらなる人であつた。
 余り電燈が明るくない総長室で、彼は間が悪そうに、ひとりで昨日来の行動を語つていた。交通が出来ないということで登庁は見合わせて自宅に居たが、夜になつて、自宅は危険だという注意を受けた。それで何処かへ避難しなければならない、ということで、親戚の者に引張られて自動車に乗込んだ。着いてみると其処が、親戚の者が懇意にしている待合であつた。どうするわけにもゆかないので、其侭其処に居た、という説明であつた。
 それだけならば事は済んだかも知れない。ところが、彼は陸軍が恐ろしくて逃げ出した、と思われたくないらしく、妙な説明を自分から始めてしまつた。
 「柳川(平助)はわしの同郷で、よく会つて話をするから、わしは陸軍の動きも知つていた。近いうちにこんな事があろうと思つていた。」
 これは聞き捨てにならない挨拶であつた。余人ならいざ知らず、治安の最高責任者としては、余りに無責任な放言であつた。黙つて聞いて居た検事等の心の中には、絶望の冬風がしらじらと吹きわたつていつた。
 何か質問はないか、といわれたときに、暗い後の方の列から、ただひとりの声がおそるおそる響いて来た。
 「総長は昨日、若い検事等がどうしているか、と考えで御覧になりましたか。」
 兵士の関門を切り抜けて登庁し、水盃で検視に出かけた第一線検事の万感が、この質問のうちにまざまざとこもつていた。しかしその答は、ピントの外れた不得要領のものであつた。
 暗い廊下へ出た検事達は、お預けになつてはいるが、その昼間、あの決議書に署名したことが決して間違つていなかつたことを再び確信しながら、黙々と階段を下りて行つた。
 私の心には、これも同じ長崎の少年時代に、可愛がつてくれたKさんという判事のことが思い出されてならなかつた。Kさんはやがて、鹿児島の裁判所長に栄転されたのであるが、その後あの桜島の大爆発のときに、家族を避難させるために、勝手に役所を離れたということが問題になつて、責任を負わされたのであつた。子供心に母親から敎えられた、司法官というものが負つている責任の厳しさというもの、これが司法官の生命だとするならば、今日の総長にその例外を求めるということは、先人達が苦しんで守つて来たものに、大へんな傷をつけることになるのではなかろうか。私の心には、Kさんのことが、噴煙のように渦巻いてならなかつた。

 文中、「お諏訪さんのお祭り」とあるのは、諏訪神社の「長崎くんち」のこと。なお、「さかほこ」とあるのは、「かさぼこ」(傘鉾)の誤記と思われる。
 また文中、「桜島の大爆発」とあるのは、一九一四年(大正三)に起き、五八名の死者を出した「桜島の大正大噴火」のことであろう。

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