礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

律令王権は西国の国家、鎌倉幕府は東国の国家

2022-01-05 02:03:40 | コラムと名言

◎律令王権は西国の国家、鎌倉幕府は東国の国家

『文藝』「日本論特集号」(季刊秋季号、一九八七年八月)から、対談・吉本隆明×網野善彦「歴史としての天皇制」を紹介している。本日は、その二回目。文中、(……)は、引用の際、省略した箇所を示す。

吉本 僕は、いっこうにそのときから進歩してなくて、網野さんの『異形の王権』というのは、読ませていただいて、一から十まで啓蒙されたなと思っていたんです。僕は網野さんの書かれたことで、二つとても印象を受けたことがありますね。
 ひとつは、網野さんが絵巻物みたいなものを扱ったことですね。そういう研究の流れがあるのかもしれませんが、絵巻物みたいな解析を通して、当時の服装、ファッションですね、いまで言うと。「an・an」みたいなものですけれども、「an・an」みたいなものの解析を通して、とうとう後醍醐の南朝の王権の性格にまで到達している。そのやりかたが、たいへん印象深かったです。僕はそれで非難されてばかりいるものですからね(笑)。 網野さんが、もしいまについて同じことをやったら、やっぱり非難されるかもしれないなと思います。だけどそれだけに止まらず王権の問題までそれを拡張していかれたことは、とても印象を受けたことなんですね。
 それから僕は、実朝のことを論じたときに、鎌倉幕府の性格ということで一種の二重王権だと考えたわけです。だから依然として律令制国家は、京都、天皇中心に解体に瀕しているがまだあって、それに対して鎌倉幕府の頼朝みたいな創始者はどう考えたかというと、それに対して横から楔を入れていくというか、これを打ち倒して武士の政権を建てようというふうに発想しないで、横から守護、地頭で一つ一つ律令の官制に対して注を付けていく、監視人を付けていくみたいなやりかたをして、一種の二重政権みたいなことをやった。武力で対立するというんだったら、こちらは征夷大将軍でもあるし、軍事機能を持っているわけだから、いくらでもやれるけど、それを行使しないでともあれ二重権力ということで、いちいち律令王権の官制に対して注を付けていこうと発想した。僕はその当時そう考えました。それ以後ちっとも進歩してないで申しわけないんですけれども。
 網野さんのは、どちらかというとそうじゃなくて、天皇の律令王権を西国の国家とすれば、鎌倉幕府は東国の国家なんで、これは武家を主体にして、こっちは皇家を主体にしてという、あっさり簡単に割り切ってしまう。網野さんが、そういうふうに考えておられるみたいに思うんです。そこは、とても僕は印象を受けたわけです。それに対して、僕にいやそうじゃない、これは二重政権なんだって主張するような勉強の深化はないものだから、ただああそうか、こういう考えかたもあるんだなということでたいへん印象を受けました。
それが『異形の王権』を読みまして、僕が印象を受けた網野さんの考えの二つの特徴なんです。そのへんから敷衍していただければと思うのですが。
川村 僕も、網野さんの本を読みまして、それから吉本さんの本も読んで、吉本さんは『源実朝』のなかで二重国家という言葉をお使いになっている。網野さんの場合は東と西ということで、ある意味で日本の鎌倉期には二つ並置した政権があるといわれる。吉本さんの場合は、それよりももう少し垂直構造的な感じがするわけで、これは似ているようだけれども、もちろん違うわけですね。このあたりが、うまく解けないものかなという気は、ちょっとあったんです。(……)
吉本 網野さんのお考えのほうが新しくていろんな問題が出てきそうな気がするんですね。 二重という考えかたは、あんまり実りはないような気もするんですよ。そういう考えかたをすると、だいたい東国に根拠地を持っているわけだから、つまり鎌倉に持ったわけだから、だんだん律令官制に注を付けていくんだけれども、遠ければ遠いほど効能は薄くなって、西国も九州のほうに近づくにつれて、だんだん効力も権力も注を付けた意味もなくなっちゃって、むしろ京都の王権の勢いのほうが濃くなる。西に行くにつれて、だんだん薄くなって、東に行くと濃度が濃くなっていく、そういう権力の図式になっちゃうんですね。だから、あまり実りはよくない。それよりも網野さんの、西と東は違うんだ。もともとそれ以前から、民族的なことから言ったって、東国と西国とは民族が違うと言っていいぐらい違うんだというふうに、網野さんはおっしゃっていると思うんですが、そのほうが面白いというか、発展性があるような気がするんですね(笑)。
 僕は、ああそうだな、そういう考えかたでやると、いろんなことが出来そうな気もするなと、とても印象深かったんですね。僕の「実朝」をやったときの考えかたは、それほどの実りはないんじゃないかなというふうに……。
 ただほんとうは分らなかったところがありまして、つまり東国、つまり関東以北と、西国とは武家層自身の集団のつくりかたとか、かたまりかたとか、そういうのは、まるで違うんじゃないかなと思ってました。もっと下がってきますと、いわゆる民俗的なことですね、そういうことも、ほんとうは、まるで違うんじゃないかな、そんな考えはどこかには、僕はそのとき持っていたように思うんです。でも、それを前面に出してくるということは、取るに足りないことなんだみたいな考えかたが、僕にあって、それをあからさまに出してこれなかったみたいです。またそれだけ見識もなかったわけです。網野さんの書かれたものを見て、まずはじめに明瞭に西と東を別に考えちゃったほうがいいんだという発想があって、やっぱりそうなんだな、こういうふうにいくと、さまざまな問題が出てきそうな気がするなという印象を受けたんです。そこらへんをひとつ……。【以下、次回】

 吉本の発言中、「実朝のことを論じたとき」とあるのは、吉本隆明著『源実朝』(日本詩人選12、筑摩書房、一九七一年八月)を指す。

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