礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

流れ弾が飛んで来るかも知れません(ラジオ)

2022-01-25 03:21:56 | コラムと名言

◎流れ弾が飛んで来るかも知れません(ラジオ)

 茂見義勝著『検事の目』(近藤書店、一九五〇)から、「あのときのことども」という文章を紹介している。本日は、その五回目。

      
 二十八日になると天下の情勢は一層険悪の度を増して行つた。反乱軍の占拠する地域は狭まつていつたが、一戦なければおさまらない模様が見え始めた。隣の海軍省の門内には何時の間にか小型タンクが待機して、水兵は煉瓦塀に土嚢を積んで機関銃を据え始めた。戒厳司令官の命令で地方からぞくぞく増援部隊が到着して、日比谷交叉点のあたりに陣地が構えられた。宮城には皇族が続々参内して、重要会議が開かれていた。
 二十九日はそれがクライマックスに述した。交通機関は朝から一切停止してしまつた。省線も私鉄も市電もバスも、あらゆるものが釘付けになつて、ただラジオだけが鳴つていた。九時になるとラジオが
 「事によると銃砲声が聞えるかも知れませんが、現在十分手配がしてありますから決して心配はありません。落付いて現在の位置を動かないようにして下さい。家の外に出ると流弾〈ナガレダマ〉が飛んで来るかも知れませんから却て危険です。寧ろ家の中で厚い壁や大きな家具の後で、銃声や砲声の聞えて来る方向の反対側に、静かに座つていて下さい。特に火の用心を願います。」
 と繰返し始めた。いよいよ始るのか、とんでもないことである。ラジオはまた「兵に告ぐ」、「兵に告ぐ」と絶叫していた。市民からは手の出せない人々が、手のとどかない問題で命懸けの争いをしているが、市民にはどうすることも出来ないのてあつた。
 午後三時過ぎになると、反乱軍は全部帰順したことが発表された。四時過ぎると交通停止も解除になつた。
 役所はどうなつているだろう。バスで駈付ける私の目にうつるものは、赤坂から青山の方へ引上げて来る陸軍の部隊、部隊。あの角、この道に土嚢が積まれ、鉄条網が張つてある。虎ノ門は完全に新橋方面と遮断されて、鉄条網と板、看板等を積み重ねて陣地になつていた。
 裁判所に着いてみると、ここにはまだ兵隊が残つていた。佐倉の部隊だということで、三階の西南の窓には機関銃が据えられていた。
 このようにして駈けつけた検事等は、期せずして皆検事正室に集まつて来た。あの総長問題以来、検事正と検事との立場はとかく微妙なものをはらんでいた。しかしそれはいわば私事である。この国家の大事件が一応片着いたということについては、国家の検事としては共に喜ばしいことなのである。複雑な感慨をこめて十数人のものは検事正を囲んで冷いビールで乾盃したのであつた。
 窓外には春めいた夕日もさしていた。これで平和な春がくるのであろうか。あわただしく飛び込んで来た新聞記者は、岡田〔啓介〕首相生存のニュースを伝えていつた。
 あくれば三月という声に、市民は何かしら新らしい、春めいたものを期待したがそれは空しかつた。責任を負つて総辞職した岡田内閣の後継が容易に決らなかつた。老軀をおして上京した西園寺〔公望〕公は、近衛〔文麿〕公を適任者なりと奉答して、同公に組閣の大命が下つたが、自信のない近術公はそれを拝辞してしまつた。そこで広田弘毅〈ヒロタ・コウキ〉氏に大命が下つた。それは〔三月〕五日のことである。新聞紙は「組閣順調、六日中に親任式」と報じた。寺内〔寿一〕大将が陸軍大臣に擬せられていて、小原〔直〕法相の留任、吉田茂、下村海南〔宏〕二氏の入閣が確実視されていた。
 ところが雲行が急変したのである。陸軍はその組閣方針こそは、依然として自由主義的色彩を帯び、現状維持又は消極政策をとるものだと排げきを始めた。寺内大将の入閣拒否をもつて攻めて来た。
 「今回の不祥事件を契機として、明治維新以来の自由主義的国策遂行の基調を、この際根本的に転換して国家統制の基調に立ち、国政一新に踏み出す根本方針を確立すべきことである。」
 とのしかかつて来た。これは国家の運命を決したターニングポイントの一つであつた。数回の会見を重ねて、次第に広田氏が折れていつたことは悲劇ともいえよう。かくして小原、吉田、下村の名は、自由主義的として次第に閣員候補から消されていつた。 【以下、次回】

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