◎日本人には他人をいたわる心のゆとりがない(吉野源三郎)
明けましておめでとうございます。
本年最初のコラムで紹介するのは、吉野源三郎の『人間の尊厳を守ろう』(山の木書店、一九四八年一一月)という本の一節です。
この本が、どういう本であるかについては、昨年一二月二五日のコラムで、紹介ずみです。本日は、その本の「ひとりひとりの人間」という章の中から、一節を抜き出して紹介したいと思います(四四~四六ページ)。
戦争に負け、物が乏しくなり、日本人の大部分が恐ろしく貧しい生活をしなければならなくなってから、まつたく残念なことですが、私たちはどこにいっても、なさけないガリガリモウジャに出あいます。人間同志の人間らしいつながりが、戦争中の無理と戦後の苦しさとで、ズタズタに裂けてしまったのでしょうか。電車や汽車に乗ろうとすれば、はたの人を突き飛ばしても先きになろうとする者がいます。車の中にはいれば、一人まえ以上の座席を占領して、そばに赤ん坊をおぶった女の人が立っていても、老人がこまっていても、知らん顔をしている若ものを見かけます。新聞では、毎日のように、強盗や殺人のあったことが知らされています。戦災で家を焼かれた気の毒な人から、だまして金をとる奴、寒い冬の夜ひとをはだかにして衣類をはぎとる奴、うらみもないのに人を殺して持ちものをうばう奴――こういう人間は、むろん今までにもなかったのではありませんが、近ごろはめだってふえてきました、これほどではないにせよ、自分の損得ばかりを考えて、礼儀も人情も忘れてしまったような人が、なんと今は多いことでしょう。
こういう人たちにとっては、何よりも大事なことは自分ひとりの仕合せを守ることであり、自分の損得や幸不幸にかゝわるとなれば、義理も人情もなくなるのです。他人のことをかまったり、いたわったりしている心のゆとりはないのです。だから、この人たちも、自分というひとりの人間、自分という個人を大事にするという点では、前にお話した個人主義の考え方に似た考えをもっているわけであります。だからこそ、世間では、こういう人たちをも個人主義者といったりするのです。しかし、この人たちは、本当の個人主義者ではありません。なぜでしょうか、それは、もうこれまでのところを読んだ君たちには、わかるはずです。
この人々は、自分という個人を大事にすることは知っていますが、他人という個人を大事にすることを知っていません。自分の幸福や自由のそこなわれるのは大きらいだが、まわりの人たちが、ひとりひとり、やはりその幸福や自由を大切にしていることを見ようとはしません。自分以外の人が同じように、その人なりに自由と幸福とを主張する権利をもっていることを認めようとしません。だから、こういう人たちは、本当に個人を大切にする人――本当の個人主義者とはいえないのです。ただのわがまゝ者であって、本当に自由を尊ぶ人――自由主義者ではないのです。
今から七十数年前の文章ですが、今の時代について言っているのではないか、と思われるところがあります。
さすがに今日では、「戦災で家を焼かれた気の毒な人から、だまして金をとる奴」や、「寒い冬の夜ひとをはだかにして衣類をはぎとる奴」の話は聞きません。しかし、そのかわり今日では、イジメ、差別、ハラスメントなどによって、他人を死に追いやる人たちがあらわれています。SNSなどを使った匿名の中傷によって、他人をおとしめ、傷つけることに快感を得ている人たちがいます。
「他人のことをかまったり、いたわったりしている心のゆとりはない」点では、一九四八年当時も、二〇二二年の今日でも、あまりかわりはありません。
明日は、この本の「あとがき」を紹介してみたいと思います。