礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

顔から火が出るほど恥ずかしかった(吉本隆明)

2022-01-19 02:05:17 | コラムと名言

◎顔から火が出るほど恥ずかしかった(吉本隆明)

『文藝』「日本論特集号」(季刊秋季号、一九八七年八月)から、対談・吉本隆明×網野善彦「歴史としての天皇制」を紹介している。本日は、その十六回目(最後)。文中、(……)は、引用の際、省略した箇所を示す。

  高度成長と社会関係の変容
網野 (……)吉本さんは、戦争が終わったころ、どこにおられたんですか。
吉本 僕は富山県の魚津〈ウオヅ〉というところで学徒動員の工場にいたんです。
網野 軍隊には…… 
吉本 理科なんです。
網野 それで助かった……
吉本 助かったんです。だから学徒動員と言いましても、一種の徴用令に基づく動員なんです。向うで終戦を迎えて、少しぐずぐずとあと片づけをして、それからおもむろに東京へ帰ってきたということなんです。
 それで僕の持っていたそのときの情念は、天皇制は負けても護られるべきだと思ってました。終戦直後は。
 それから、もうひとつ思っていたことは、どこかでチャンバラがあるならば、つまり最後まで抵抗する、軍隊とか普通の人の一部分でもいいですが、それがどっかに立て籠もって、上陸してきた米軍に抵抗するというんなら、自分は加わろうと思って帰ってきました。
 それは、ぜんぜん違うんです。帰ってきたら、ぜんぜんそうじゃない。あと片づけして帰ってきたら、そんな自分の頭のなかにあったイメージは全部違う。日本の民衆に対しても違ったけれども、米軍に対しても違っていた。上陸してきたって、それはあたりまえと言えば、あたりまえなんだけれども、ちょっと恐る恐る有楽町みたいなところへ行くわけですよ。そうすると、なんか呑気そうにアメリカの兵隊がガムを嚙みながら、女の子なんかと戯れながら、明るく楽しく悠々として歩いているわけですよ。これは違うよ、俺が考えていたのと、ぜんぜんイメージが違うよということになりました。このイメージの食い違いには、とことん参ったという感じでした。これほど俺の思い込みは違っていたんだということで、顔から火が出るほど恥ずかしかったです。
網野 四つ年上だから、吉本さんのほうがずっと深刻だと思うんだ。僕は東京で、やはり学徒動員で敗戦を迎えたんです。僕は文科へ行きたかったんでね、理科へ行けば生き延びられると思ったんだけれども、文科にいきたかった。散々迷ったあげく僕としては空前絶後のことですが、易者に占ってもらった。そうしたら文科に行け行け、大丈夫だという易者に、たまたま会いましてね。それで文科へ行ったわけ。もうあと半年戦争が続いていたら、軍隊に引っ張られていたことは間違いないですけど、まだ十七歳だったんですね。僕は非常に真面目な学生でもなかったし、まことにあやふやな普通の学生で、ぼんやり過ごしていたものですから、敗戦のときは一種の虚脱状態に陥った。やる事がないんですね、翌日から。
 それでもなにか動かないと具合が悪いと思って郷里へ帰って、学校辞めて百姓やるんだなんて言っていったん帰ったんだけれど、結局また呼び出されて出てきて、また学生になったということだったんですね。とにかく、そのころは戦争や天皇について意識的に本格的に考えるようなことは何にもなかったんです。
 ただひとつ、吉本さんに伺いたいのは、さきほどもいったように、とにかく高度成長期以後人間と自然の関係がものすごく変わってしまった。この変化をもとへ戻すことの出来ないことはもちろん間違いないことですけれども、この変化の中で、われわれが今後どう動いていったらいいかと言うか、見守っていったらいいかと言うか、何と言っていいか、ちょっとわからないですけれども、どう、これから考えていったらいいかという点は如何でしょうか。
吉本 なんて言いますか、産業で言えば農村と都会、農業と非農業的な産業との対応ということになるでしょう。その関係は歴史の無意識では対立的に考えられてきて、だんだん都市と産業とが発達してきて、農業がだんだん追い詰まって衰微していく。それと同時に天然自然の自然は、だんだん衰えていく。きっといまの左翼的な一般論のシンボルは、それをどっかで食い止めなければ、公害を含めてとんでもないことになるぞという発想だと思います。そして僕等はそれらとシンボルで対立していると思うんです。僕は、すでに都市と農村の対立の段階は過ぎてしまったと思っているわけです。
 つまり、たとえば都市が農村を包括すると言いましょうか、あるいは人工的なものが、自然的なものを包括するという発想をとるか、あるいは、もうひとつは、天然よりも、もっと本質的な自然というのはつくれるという発想をとる以外にないと僕自身は思っています。(……)
網野 同感ですね。
吉本 (……)
網野 (……)
吉本 (……)
網野 (……)
吉本 (……)
網野 (……)
吉本 (……)
網野 たしかに、人間の好奇心、新しいものを見つけようとする意欲は、人間の本質につながる力だと思うので、これを矯めたり押さえつけたりすることで、ことは処理出来ないことは確かなんです。しかし、裏返して自然、自然としての人間についてわれわれは知らないことが多すぎる。これは吉本さんの分野ではなくて、もっと実証的な研究をしている人間がやるべきことでしょうが、やはり吉本さんにもやっていただきたい。実際自然の持っているもうひとつの奥深さは、案外研究もされていないし、本気で追究されてこなかった。
 近代の学問が、自然を開発の対象として見つづけてきたと思うので、むしろ自然から人間を見るような見方で問題を追究してみたら、その方向に好奇心、探求心を働かせてみたらいったい何が出てくるか。これには未知数なものがあると思いますので、我田引水になるけれども、僕はやはりそういう観点から人間の社会を見返してみたい。この点でも正直わからないことが、自分の目の前に、あまりにもありすぎましてね。これが多少ともわかったときに、何がまた見えるか。これは、いま吉本さんのおっしゃった本質的な自然をつくり出すという作業に、たぶんつながると思いますけれども、それをたしかめてゆきたいという気持ですね。
川村 単なるエコロジーというのは、保守的で農本思想につながって、さらに天皇制につながるみたいな傾きがあると思いますね。そこまで言っちゃいけないんでしょうが。
網野 いろいろありますからね。皆そこのところで困っているわけだから、僕はレッテルはあまり貼りたくないんですよ。だから結論はあまり急がないで……僕はどうしても、そういう方向にいっちゃいますけれども、そのほうが、ずっと先に生産的なものが残せるような気がして仕方がないんですけれども。
――〔編集部〕どうもありがとうございました。 1987.6.2(了)

 網野は、吉本に、戦争が終わったとき、どこにいたのかと聞いている。吉本の経歴について、予備知識を持っていなかったことがわかる。しかし、対談を終えるにあたって、網野は、吉本と戦争との関わりについて、本人に確認しておきたいと思ったのであろう。
 その問いに対し吉本は、学徒動員で、富山県の魚津にいたと答える。さらに、上京後、有楽町でアメリカ兵に接し、自分の思い込みの食い違いに気づき、「顔から火が出るほど恥ずかしかった」と述べている。
 吉本は、網野に対し、心を許す気持ちがあったのであろう。でなければ、こういう「恥ずかしかった」体験を語るはずはない。
 これを受けて網野のほうも、「文科」を選択する際に、「易者に占ってもらった」体験を語っている。網野のほうも、吉本に対し、心を許す気持ちが生じたのであろう。
 さて、吉本・網野対談の紹介が、予定していたよりも長くなってしまった。若干、補足したいこともあるが、これは機会を改める。
 明日は、話題を変える。

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