◎阿部謹也の発言に拍手が起きた(網野善彦)
『文藝』「日本論特集号」(季刊秋季号、一九八七年八月)から、対談・吉本隆明×網野善彦「歴史としての天皇制」を紹介している。本日は、その十五回目。文中、(……)は、引用の際、省略した箇所を示す。
網野 僕は名古屋のある講演会で、浩宮は本気で歴史家になろうとしている。そうであるならば良心的学問的な歴史家として、天皇陵の発掘を進んで推進して自分の家系がいかなるものかを、明らかにするのが当然であろう。同じ歴史を学ぶものとして僕は彼に期待したいと言って、壇上を降りたんですよ。
そしたら阿部謹也氏がつづいて立って、網野はいま、まだ二十そこそこの若者に大分無理なことを言った。これまで歴史家ができなかったことをそう簡単に出来るもんじゃないと思うと冗談めかして言ったら、拍手が湧いたんですよ。阿部氏もびっくりしたらしいですが僕が言ったことが、いかに抵抗感をもって受け止められたかということを、まざまざと知ったんです。
川村 それはどういう場所でのことですか。
網野 僕と阿部さんの二人の講演会の席上ですよ。名古屋の本屋さんが主催した会ですね。 会に見えている方にはお年寄もかなりいた、僕の教えた学生が、自分の前に半白〈ハンパク〉の人がいて、阿部さんの話に熱心に拍手していた、「先生、あんなこと言うと危ないよ」なんて、あとで言っていましたけれど、そういう反応が起こるんですよ。
川村 国民の総意とは言わないけど、総意らしきものではあるんですね。
網野 だから単純にはいきませんね。
吉本 なかなか微妙ですね。僕はそういうことで感じたことがあるのは、高千穂というところに行ったことがあるんです。車で三時間も四時間もかかる山の中へ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるんです。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えないみたいなところもあるんですね。
なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話のなかの、自分達の出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つまり神話のとおりに、自分達の祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることになるわけでしょう、間接的に。
だから、僕はなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。(……)
川村 『象徴天皇』のなかに出てきますが、瓊瓊杵尊〈ニギニノミコト〉の陵なんてものもちゃんとあるらしいですね。
吉本 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましてね。ちゃんとそれは出来でいるんですよ。
川村 やっぱりほんとうに神話の中の天皇なんですね。
吉本 (……)
川村 (……)
吉本 (……)
川村 首の皮一枚を残してしまったということは、なぜそうなったか、何がそうさせたのか、いままでの日本の戦後史研究の中にはそういうモチーフがあったのでしょうか。
網野 「研究」というよりも、それは日本人が切る気がなかったんでしょう。一億近い人間が、としか言いようがないんじゃないかと思いますけど。
どうでしょう、日本人が敗戦の時点で少なくとも一割切ろうとわめいたら……
吉本 一割もいない数ですよね。
網野 それでも一割が本心で動いていたら、切れていたかもしれないと思うな。
吉本 (……)
川村 (……)
吉本 (……)【以下、次回】
網野が「天皇陵発掘」に関わるエピソードを披露すると、吉本は「高千穂」に行ったときの話をする。対談も終盤に近づき、両人の息も合ってきたようである。