◎六尺棒を持つた番人が五六人居たやうに思ひます
正月に、箱根駅伝第5区「小田原・芦ノ湖間」の中継を見ているうち、昔、何かの雑誌で読んだ文章を思い出した。その文章は、幕末維新のころの箱根を、老女が回想しているものだった。
数日前、ようやく、その雑誌が見つかった。文藝春秋社発行の月刊誌『話』の第四巻第三号(一九三六年三月)で、当該記事は、鈴木かめ述「箱根の山奥に百年住んで」であった。この記事を、二回に分けて紹介する。
箱根の山奥に百年住んで
――御維新前後の思ひ出を語る―― 鈴 木 か め 述
==相州〔相模国〕箱根温泉村大平台【おほひらだい】の鈴木かめ女は明けて百一歳になる。百歳以上の長寿が既に驚異であるが、而もかめ女は今以つて五体健全、記憶力も可成【かな】りしつかりしてゐる。
箱根は東西交通の要地として、特に幕末兵馬忽忙【へいばさうぼう】の時代には、幾多の歴史的人物が往来し、革新日本の礎石をなす事件が屡々【しばしば】展開された興味ある地点だ。其処に百年余を住み続けたかめ女の記憶に、何か耳新しい想ひ出もがなと訪れて聴きたとこるを此の一篇に綴つた。
勿論、誤伝誤聞が錯入【さくにふ】して事実と相違する点が有るのは免れないが、老女の想ひ出話として、それはそれとして別な興味が有ると思ひ、敢て筆者の穿鑿【せんさく】はさし挟まなかつた。(記者記)==
お 関 所 を 通 る
私【わたし】は天保七年〔一八三六〕四月廿日【はつか】この大平台に生れ、娘の頃暫く小田原へ行つて居たのを除いて、現在まで此処に住み続けて居ります。当時の婦人の習慣として殆ど家庭に閉ぢ籠つて他行【たぎやう】しませんので、百年間住んで居たとは云ふものゝ、余り移り変る世間のことは知りませんが、子供の頃、一度お関所を見に行つたことが有ります。
土地の者は門鑑【もんかん】が要らないし、それに子供などは咎【とが】め立【だ】てしないと聞かされて居ましたが、お関所の番人と云へば閻魔【えんま】の庁【ちやう】の赤鬼青鬼【あかおにあをおに】の様に思はれて、黒い門の前に立つた時には怖しさに足が悚【すく】みました。私は大人の入知恵【いれぢゑ】で、箱根村へ油を買ひに行【ゆ】く風を装つて油壺を下げて居りましたので、何も云はず通して呉れましたが、六尺棒を持つた番人が五六人居たやうに思ひます。私共の間では、これを「棒突【ぼうつき】」又は「探索」と呼びならして居ました。怖いもの見たさに、お関所を駈け抜けながら左右を見ますと、路【みち】の両側に建物があつて、湖側【うみがは】はお白洲【しらす】に役宅【やくたく】らしいものが続いて居り、山側の建物は、後で聞くと牢屋だと云ふことでした。
私共は、いつも立派なお役人がお白洲に並んで居る様に考へて居りましたが、普通の通行人は棒突が取りさばいて、棒突の一存では行【ゆ】かぬ場合だけ、お役人が奥から現れて取り調べるのさうです。私が通る時は、偉いお役人の姿は一人も見えませんでした。【以下、次回】
若干、注釈する。「箱根温泉村」とあるのは、神奈川県足柄下郡(あしがらしもぐん)温泉村のこと。温泉村は、一八八九年(明治二二)の町村制の施行にともなって成立。一九五六年(昭和三一)に箱根町等と合併し、箱根町となった。
鈴木かめ女が油を買いに行った「箱根村」とは、「箱根宿」のことか。箱根宿は、明治初年に「箱根駅」と改称。箱根駅は、一八九二年(明治二五)、「箱根町」と改称。