◎おれは岡田大将に似ているだろう(松尾伝蔵)
岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、第八章「二・二六事件の突発」を紹介している。本日は、その二回目。
義弟松尾の最期
これで邸内に泊まっていた護衛の警察官は、みんないなくなってしまったわけだ。はじめ に日本間の玄関の外で襲撃隊を阻止しようとした小館〔喜代松〕巡査は、その場で殺害されていたそうである。そのほかの警察官は、おおかた逃げたり、あるいは抵抗をしなかったので、別条はなかったようだ。
松尾〔伝蔵〕はどうしたのだろう。わたしのいるふろばから洗面所をへだてて中庭があり、その向うがわたしの寝室。ガラス越しにふろばから寝室の中まで見通せるようになっている。
『庭にたれかいるぞ』
という声がした。寝室と中庭との間の廊下に部下五、六人をひきつれた下士官が現れた。ふと中庭を見ると、戸袋のわきにくっつくようにして立っている人影がある。松尾であることがすぐにわかった。
『撃て』
と下士官がどなっている。しかし兵隊たちは、機関銃をもっているんだが、不思議なことに撃とうとしないんだ。みんな黙って、つっ立ったままでいる。
兵隊たちが撃とうとしないものだから、下士官は大いにおこったようだ。
『貴様らは今は日本にいるが、やがて満洲へいかなければならないんだぞ。満洲へいけば、朝から晩までいくさをやるんだ。毎日人を殺さねばならないんだ。今ごろこんなものが、ひとりやふたり撃ち殺せんでどうするか』
と地団太ふんで、はげましている。それでも引金をひかない。しかし、やはり相手は上官だ。ためらっていた兵隊たちもついに廊下の窓から中庭に向かって発砲した。松尾はこうして死んだ。これはあとで松尾の死体を調べてわかったことだが、十五、六発の弾丸がからだじゅうに入っており、さらに、いつこんな傷をつけたのか、あごや胸に銃剣でえぐったあとがあったとか。むごたらしい殺し方をしたものだ。松尾を殺した一隊は、日本間の非常口から外へ出て、表の本館のほうへいった様子だ。今、思うと村上や土井を倒した一隊が、わたしを捜して非常口からどこかへ立ち去ったあと、新手〈アラテ〉の一隊が松尾を見つけて撃ったものであろう。
わたしの周囲には、兵隊の姿は見当たらないが、官邸の中をあちらこちら捜しているよう な気配がする。しばらくしてどこからともなく現れた一隊が、廊下の窓から中庭に倒れている松尾の死体を見つけだした。『ここにだれか死んでおるぞ』といいながら、庭におりた連 中は口々に、
『じいさんだ。これが総理大臣かな』
と話しあっている。そのうちに松尾の死体をかつぎあげて、さっきまでわたしが寝ていたへやに運びこみ、わたしのふとんに横たえた。
その寝室は十畳で、隣は十五畳の居間になっており、そこの欄間〈ランマ〉にわたしの夏の背広姿の写真が額に入れて飾ってあった。彼らは、それを銃剣で突きあげて下へ落とした。死体の顔とその写真とを見くらべて、死体の主がわたしであるかどうかを、確かめようとしたものらしい。
この事件で、あんなに大勢の軍隊に襲撃されながら、わたしひとりがかすり傷ひとつ負わずにすんだことについては、いろいろな不思議があるんだが、その不思議のひとつはこのとき起った。もちろんこれは後になってわかったことなんだが、兵隊どもがわたしの写真を欄間から突き落としたとき、銃剣を持つ手もとが狂ったのか、剣先でしたたか、わたしの顔のみけんのところを突いたらしい。写真の上にはめこんであったガラスにひびがはいった。それもみけんのところを中心に四方へひろがっていた。
兵隊どもは額を拾いあげると松尾の顔をのぞきこむようにして、写真と見くらべている。 しかしあんなにガラスがひびだらけじゃ写真の顔がよく見えなかっただろうと思う。それに彼らの気持も常態ではない。ついに松尾の死体をわたしだと断定してしまった。
『これだ、これだ、仕止めたぞ』
とガヤガヤ話しながら寝室を出ていった。本館のほうにいる本隊へ報告に行ったんだろう。
そのときの様子は、官邸の裏門のそばにあった秘書官官舎でも手にとるようにわかったそうだ。秘書官は迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉である。迫水は銃声を聞いて予期していた異変がついに起ったのを知り飛び起きて警視庁に電話すると、当時新撰組とあだなされていた特別警備隊の一箇隊はすでに出発したということだったので、服に着かえていると、意外にも兵隊がたくさんやってきて、裏門のところで官邸のほうに銃口を向けて機関銃をすえたそうだ。急いで官舎を出ようとしたが、そこら一帯はもう兵隊がいっばいいて、門から一歩も出してくれない。やむなく二階に上がって官邸のほうをながめていると、玄関の方角で、
『とうとうやったぞ』とか『世話をやかせたな』とか、いいあっていたそうだ。
目前から引き返す兵隊
またあたりが静かになったが、松尾たちに寝着のまま寝床からひきずりだされて、ふろばに押しこめられたのだから寒くて仕方がない。わたしは厚ぼったいものを着て寝るのがきらいでね、着ているものは薄着一枚だった。
こんな姿で見つけだされるのもいやなものだし、この際着物を着ておこうと思って、ふろばを出て、寝室に入っていった。あたりは土足で踏み荒らされて、さんたんたるものだった。さっきまでわたしの寝ていた床の上には、松尾の死体が横たわっている。例の写真の入っている額はかたわらにほうりだしたままだ。
松尾はわたしの妹の婿で、なんというか、非常に親切な男だった。その親切には、少しひとり決めのところがあって、わたしが静かにしていたいときでも、なにかと立ちまわって世話をやくというふうな性質だった。わたしが首相を引き受けたについて、これは義兄の一世 一代の仕事だから、どうしても自分が出ていって、めんどうを見てやらねばならん、という気持で、総理大臣秘書を買って出たと思われる。陸軍大佐で当時六十一歳だった。どうしても、わたしのそばで役に立ちたいというものだから「内閣嘱託」という辞令を出した。給料はたしか無給だった。それでも喜んで官邸に寝泊まりしていた。
事件直前の選挙では、秘書官をやっていた福田耕〈タガヤス〉が福井県で立候補したので、松尾はその応援演説に行った。福井で、
『おれは岡田大将に似ているだろう。このごろはひげの刈り方まで似せているんだ』
と言っていたそうだが、いつもいっしょに暮らしているわたしから見れば、似ているもなにもあったものではない、まるで別人だ。しいていえば、二人とも年寄りであるということが似ているくらいのものだった。頭はわたしは五分刈りだったが、松尾はだいぶはげあがって、すそのほうだけ五分刈りにしてあった。松尾をわたしとまちがえたのは、松尾というもうひとりのじじいが官邸にいるとは、さすがの反乱軍も思いおよばなかったためかもしれない。
松尾が福田の応援演説から帰ってきたのは二月二十五日だったが、それから一昼夜もたたないうちに、この世を去ってしまったわけだ。余談だが、松尾のむすこに新一というのがいる。麻布三連隊の中隊長だった。事件の前年の十二月の異動で北支駐屯軍の山海関〈サンカイカン〉の大隊副官に転じたが、新一の部下だった中隊は反乱に参加している。新一は後に、
『もしあのとき、うちのおやじが、われこそは岡田啓介なりと名乗って出て身代わりになったのであったら、こんな申しわけのないことはない』
といっていたそうだ。おやじがよけいな世話をやいたために、わたしに大事な際の進退をあやまらしめたではないか、という心配がむすこの胸に去来していたと思われる。わたしとしては、松尾のやってくれたことに対してはありがたかった、という気持があるだけだ。
それはさておき、わたしは松尾の死体にぬかずいてからそのそばで、寝着を脱いであわせ に着替えた。部屋の電燈は消えていた。羽織をはおって、袴をとりあげその紐を結ぼうとすると、また玄関の方角から人の足音がドヤドヤと近づいた。そこで廊下に出て、洗面所の壁 のところに立っていた。
寝室に入ろうとしたのは、あとで聞いたところによると、坪井という一等兵だったそうだ。 本所あたりの浪花節語りだとか。『今なにか、へんなものがいたぞ』といっている。『たしか に地方人だ、じいさんだった』『しかしもうだれもいるはずがないんだから、へんだぞ』と いいあっている。そのうちに『気味悪いな、帰ろう』といったかと思うと、そそくさと引き 返していってしまった。わけのわからぬ兵隊どもの行動で、もし彼らが丹念にあたりを見回 せばわたしのいることをわけなく見つけだしたと思うのだが、これもやっぱり不思議のひとつだ。【以下、次回】
「義弟松尾の最期」の節に、ある下士官が、「今ごろこんなものが、ひとりやふたり撃ち殺せんでどうするか」と怒鳴ったとある。こう怒鳴ったのは、将校の(下士官ではなく)林八郎少尉だったようだ。
映画『二・二六事件 脱出』(ニュー東映、一九六二)では、この場面が、再現されている。撃とうとしない兵隊たちに向かって、「撃て」と叫んでいるのは、大村文武さんが扮する「森少尉」である。