◎将軍様を拝まうと三枚橋の辺りまで出掛けました
『話』第四巻第三号(一九三六年三月)から、鈴木かめ述「箱根の山奥に百年住んで」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
雲 助 の 生 活
私の主人は、大正十四年〔一九二五〕九十二歳で亡くなりましたが、若い頃は雲助稼業をして居ました。土地の習慣として、体のいい若い衆は皆【みんな】雲助になったものです。
小田原に人夫【にんぷ】の問屋場【とんやば】があつて、毎日其処で仕事を貰ひ、箱根を越えて三島まで担ぎました。荒い稼業なので、温和【おとな】しい若い衆でも直ぐ一廉【ひとかど】の無頼漢【ならずもの】らしくなり、明け荷をしたり「山祝ひ」を強請【ゆす】つたりしました。
「山祝ひ」と云ふのは、無事箱根を越えたお祝ひに、と云つて、酒代【さかて】を強請【ゆす】ることです。お侍衆になると、なかなか雲助の云ひなりにおいそれと出しませんので、時々争ひが起こつたさうです。私の主人なども、一度お侍に「山祝ひ」をねだつた所が何うしても出さなかつたので、腹立ち紛れに「此の旦那は乞食【こじき】かい」と悪口【あくこう】したさうです。
するとお侍は「雑言【ざふごん】申すな」と呶鳴つて刀に手を掛けたので、流石【さすが】向ふ見ずの主人もすつかり怖気【おぢけ】づいて、「手前共の符牒で、お武家様や御出家を小ジキと申し、それ以下の人間を大ジキと申します」と弁解したさうです。まさか斯んな子供騙しの言訳に納得した訳でも有りますまいが、雲助相手に争つても始まらないと思つたものか、其のまゝ許して呉れたさうです。「今日はすんでの所でバツサリ殺【や】られるところだつた」と家【うち】へ帰つて苦笑しながら話して居ました。
斯んな荒稼ぎですから、お定【さだま】りの飲み、買ふ、打つ、は雲助に附物【つきもの】です。小田原城のお見附先の広場では、毎日雲助達の野天博奕【ばくち】がおほツぴらに開かれて居ました。目が出なければ褌【したおび】一本で帰つて来るし、当れば酒を鱈腹【たらふく】飲んで、それでもお鳥目【てうもく】が余ればお味噌や醤油を持つて帰ります。一体どれ位【くらゐ】の稼ぎが有つたものか知りませんが、私共が天保銭を見たことは滅多にありません。力自慢の雲助でも、雪の箱根越えは大変苦しかつたさうです。長持【ながもち】などは、雪の上を橇の様に曳【ひき】ずつて運びました。それでも時々荷物を壊すことが有つたさうですが、荷主【にぬし】の方では別に何とも云はず、雲助仲間でも、箱根で縮尻【しくじ】ることは恥辱にならなかつたさうです。
御進発と榊原健吉
今でこそ大平台は本街道に沿つて居りますが、旧東海道の廃止された明治二十年〔一八八七〕頃までは、寂しい間道【かんだう】の小村でした。其の頃の旧東海道は一日中賑【にぎやか】な人通りが絶えず、立派な行列もよく通つたさうですが、女のことでは有り、わざわざ大平台から見に出かけるやうな事は滅多にありませんでした。
それでも将軍様御進発(註。文久三年〔一八六三〕三月、将軍家茂【いへもち】攘夷の詔勅により上洛)の折は、将軍様が外国を攻めるとか長州を討つとか大変な騒ぎで、私共も将軍様を拝まうと、村の人人と三枚橋の辺りまで出掛けました。
私共が街道へ着いた時は、将軍様はもうお通りになつた後でしたが、行列はまだ長々と続いて居りました。お大名毎に馬印【うまじるし】を樹てゞ、誰も彼も徒歩【かち】だつたやうに憶えて居ります。大部分のお侍が鎧【よろひ】で身を固め、其の上に陣羽織をはおつて居ました。私共は、鎧が日光に当ると暑いので、上に陣羽織を着て居るに違ひないと囁【さゝや】き合つたものです。
中に唯一人、頭抜【づぬ】けて背が高く、異様な風体のお侍が混つて居りました。此の人は陣羽織の代りに網の掛かつた越前蓑【ゑちぜんみの】を着て、其の蓑には幾枚もの短冊がヒラヒラと結び付けてありましたので、直ぐ人目をひいて噂の的になりました。
これが江戸一番の剣術使ひの榊原健吉(註。当時二の丸留守居格【るすゐかく】、三百俵取り、家茂の親衛隊)と云ふ人で、右腕の太さは普通の二三倍も有つたさうです。怖しい様な頼母【たのも】しい様な気がしました。
其の後【のち】江戸が騒【さはが】しくなつた時、有馬様が江戸を避難してお引上げになりましたが、斯の行列は何故か旧東海道を避けて間道を通りましたので、私共も始【はじめ】から終まで見る事が出来ました。お侍衆は打裂羽織【ぶつさきばおり】で徒歩【かち】でしたが、女子衆【おなごしう】はお女中の末に到るまで皆美々【びゞ】しい塗駕籠【ぬりがご】に乗つて、其の長い女乗物の行列がキラキラと飾物を陽【ひ】に輝かせ、まるで錦絵から抜け出た様な眺めでした。後【あと】にも先にも、斯んな美しい目の覚める様な行列は見られませんでした。
山崎戦争の思ひ出
一番身近に怖しく感じたのは、旗本脱走兵の伊庭【いば】八郎と云ふ人達が箱根に立籠つた時でした。(註。明治元年五月廿日、上総【かづさ】請西〈ジョウザイ〉の領主林昌之助忠崇【はやしまさのすけただたか】旧幕臣の遊撃隊と合し、上野の彰義隊と呼応して箱根に拠る)小田原様の御家来にも旗本脱走兵の味方に附くものが出たとか、小田原様お叱りのお使者が来るとか(註。同廿五日、大総督府錦旗奉行穂波経度【ほなみつねのり】問罪使として小田原に至り、大久保侯に迫つて順逆を正さしめ、援けて賊軍討伐を命ず)それは大変な騒ぎでした。
風祭【かざまつり】、入生田【いりふだ】、山崎切通【きりどほし】の辺りには小田原藩の土塁が積まれ、三枚橋には関所が出来たと云ふ噂でした。
私共は危いから出てはいけないと云ふお触れでしたが、怖はごは〈コワゴワ〉ながらも戦争が見たくて鎌と梯子【はしご】を持つて裏の山へ登りました。鎌と梯子は、万一見咎【みとが】められた場合に、薪【まき】を伐りに来たと答へるための用意です。頂上から眺めますと、遥か切通の辺りに戦争らしい人の動きが見え、白い煙が上つて居ました。それ以上はつきりした事は私共には判りませんでしたが、戦争が済んでから主人が聞いて帰つた話によると、官軍が石垣山を廻つて後【うしろ】に出たため、脱走兵は十一二個の死骸を残して逃げたさうです。又この戦争で、小田原様は日本に五挺しかない村田矢【むらたや】と云ふ怖しい道具を二挺持つて居て、其のために楽々戦争に勝つた、流石【さすが】御内福な小田原様は違つたものだ、と噂し合ひました。村田矢と云ふのは何んな道具か知りませんが、何でも強い毒を持つて居るらしく、村田矢の当つた並木の松が、現に枯れがれになつて居るのを主人は見て来たさうです。私共は村田矢と云へば、世の中で一番怖しいものゝ様に思つて居りました。
堂ケ島でも脱走兵と官軍との戦争があつて、此処では十人の脱走兵中の九人が殺されたさうです。斬落した九つの首を、四斗樽に詰めて小田原へ搬【はこ】び下るさうな、と云ふ噂も立ちました。
残りの一人は、宮ノ下の江戸屋とか云ふ宿屋に逃げ込んで、米櫃【こめびつ】の中に隠れ、まんまと追跡の手を逃れたさうです。立派なお侍なので、宿屋の主人が同情してして匿【か】くまつたとも云ひますから、伊庭【いば】八郎と云ふ大将だつたかも知れません。
又、三枚橋の関所の処で、片腕を切られたのが伊庭八郎だつたさうですから、他の身分あるお侍だったかも知れません。(終)
「雲助の生活」の節に、「明け荷」という言葉がある。辞書にある言葉だが、ここでは、辞書にはない意味で使われているようだ(何らかの不正行為を指す言葉として)。
「御進発と榊原健吉」の節に、「越前蓑」という言葉がある。調べてみたが、ここにある説明以上のことはわからなかった。同節にある「有馬様」は、最後の久留米藩主・有馬頼咸(ありま・よりしげ)のことであろう。
「山崎戦争の思ひ出」の節に、「村田矢」という言葉がある。調べてみたが、ここにある説明以上のことはわからなかった。
明日は、話題を「二・二六事件」関係に戻す。