礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

疑問をもって調べると色々なことがわかる(網野善彦)

2022-01-15 03:15:18 | コラムと名言

◎疑問をもって調べると色々なことがわかる(網野善彦)

『文藝』「日本論特集号」(季刊秋季号、一九八七年八月)から、対談・吉本隆明×網野善彦「歴史としての天皇制」を紹介している。本日は、その十二回目。文中、(……)は、引用の際、省略した箇所を示す。

  象徴天皇制の過去・現在・未来    
川村 話を象徴天皇制のほうに移したいんですけど、たとえば象徴天皇制というのは、僕もあまり調べたわけじゃないですけど、たとえば津田左右吉〈ソウキチ〉なんかが、戦後いわゆる天皇制擁護みたいなことを言ったときに、象徴天皇制というのは、実は戦前もそうだったんだというふうな言い方をしていたと思うんです。
 そうすると、象徴天皇制というのは、けっして戦後、つまり人間宣言をして、新憲法で天皇を打ち出す以前から、実は実質的にはあれは象徴天皇制と言えるような形であったんだというふうに言っているような気がしたんです。それは網野さんの『異形の王権』の、たとえば後醍醐から近世まできて、そしてどこではっきり切れるか切れないかということとは別ですけれども、明治天皇が王政復古というような形で天皇中心の権力構造を作るんですが、それはむろん古代王権や「異形の王権」としての天皇制ともまた別なものだったわけですね。明治維新、敗戦、それから高度成長という、近代のここ百年ぐらいで、そのぐらいの大きな三つのメルクマールみたいなのがあったと思うんですけど、そうすると、それは全部あるでは、明治天皇あたりからすでに、あるいはそれ以前から一種の象徴天皇制というのは続いているというか、そういうふうになっていたんじゃないかという気もするわけなんですが、そのへんはどうですか。戦後になってから、突然象徴天皇制ができたということでは、けっしてないと思うんですが。
網野 さっき川村さんのおっしゃったことで、答えが出ているんじゃないですか。
 つまり制度としての天皇制と、アクの強い個性的な天皇の問題につながるのではないで しょうか。津田さんや、石井良助さんは明治天皇などは天皇のなかの例外だというわけですよ。明治天皇は大変性格の強い人で、相当政治的に動いて天皇の権力を行使した人のようですからね。そういう要素を例外にしてしまえば津田さんや石井さんのように言えるで しょうし、天皇制の重要な側面はたしかにそこにあるとはいえるけれど、それでは後醍醐などのでてくる意味はやはりわからなくなってしまうと思います。
 ただ、戦後の左翼の批判は、専制なる君主制として制度としての天皇制を批判して、アクの強い天皇を、悪玉にして叩いたのだと思うんです。これは一見非常に簡明だし、実際、戦争中の弾圧がそれを証明しているともいえるから、そうした批判をすれば天皇制を批判できたよう思っていた。川村さんのいわれた戦前、前近代からの権威としての天皇、象徴天皇制は、権力を欺瞞的におおいかくすものとしかみていなかったから、それ自体を批判する観点はなかった。だから吉本さんがおっしゃったように、象徴天皇制を本気で否定する気があるのかというところにきてしまうような問題を全く残してきてしまったのではないでしょうか。
 僕は吉本さんより若かったせいもあって、先ほどいったように敗戦体質の深刻度は小さい。だから吉本さんほど鮮明に民衆に絶望したなどとは到底いえないんです。ただ、近代史の専門家と議論していますと、敗戦の時点の天皇は、客観的に見るかぎり、首の皮一枚でつながっているぐらいの危機的状態にあったというし、それは事実なんですね。
 ところがその首の皮一枚を切れなかった。それはどうしてかという問がなかなか出てこないわけですよ。その問を出すと、とたんにお前は天皇制を「永遠化」するつもりなのかと逆に言われるような、不思讓な構造がありますね。
 もちろん僕がこういう問を自分の中に持つようになったのは敗戦の時点を大分あとになって振り返ってみてのことなんです。敗戦の時の感は吉本さんにくらべれば、はるかに厳しくないぼんやりしたものだったんだと思います。
 だから逆にこれは、僕自身の問題でもあるわけで、実際敗戦のとき自分が何をやっていたかといえば、ポカンとしていた、奇妙に真空の虚脱状態にいただけですからね。それも首の皮一枚つなげる役割をしたわけですから。その点がいちばんポイントだと思ってます、いまでも。その首の皮一枚すら切れなかったわれわれとはなにかということを考えますとね、事はそう簡単ではないと思うんですよ。(……)
川村 (……)
 そこのところでぜんぜん天皇制以後の発想とか、象徴天皇制を具体的に分析するとか、そういうものが出てこないというのが、日本の歴史学でも文学でもそうですが、なんかそこで止まっている。限界になっているというような気がしてならないんです。(……)
網野 ところが、そういう問題を出すと、天皇を特殊視し、神秘化するものだという批判を受けるわけなんですよ。
 しかし実際、後醍醐の場合にもまだわからないことがあるので、幕府が南朝を本当に徹底的に撃破してたら、いまの天皇家は、たぶん存在しないと思いますね。
 だからこそ最初に言いましたけれど、いまの天皇は南朝を否応なしに正統にせざるをえないのではないかと思うんですよ。
 南北朝内乱の初期に、髙師直〈コウノモロナオ〉は吉野へ攻め込んで天皇の居所を焼いてしまう。後村上は吉野を逃げ出すんですね。これを追いかけていって、捕まえてしまうことも本気でやろうと思ったらできたのではないかと思うんです。
 しかしそれをいろいろな偶然もあったと思うんですが、ついにやり切れなかったんですね。高師直は、天皇など木か金でつくっておけばいいじゃないかと言ったぐらいの男なんですからね。ここで南朝を滅ぼすことができたと思う。ところが、幕府の内部の事情もあったと思いますが、結局、後村上は賀名生〈アノウ〉に逃げこんでしまう。しかし賀名生だって本気でやれば攻められないはずはないと思いますね。吉野まで攻めたんだから。にもかかわらず南朝は残ってしまうわけですよ。その結果最後には南北朝合一なんていう、あやしげな形で南朝を吸収することになる。
 あの時点で南朝を突き抜けておけば天皇家は多分滅びたと思うけれどもそうならなかった。それはなぜなのか、ということもまだ本当にわかっていないんですね。
 現代の問題も同じですね。戦前のきびしい弾圧で、反対勢力がいなかったからなのだとよくいわれるけれども、それはぜんぜん理由にならない。とにかく首の皮一枚を残したわけでしょう。それをもって、日本人は文化財を大事にする心を持った民族だなどといっていると、日本人全体が文化財になってしまいますよね。それは具合がわるいとすれば、やはり、皮一枚を残す心性は何なのかという問を発せざるをえない。
 みなわかっているならいいですよ。そう思っている人もいるでしょうけれど僕にはわからないことだらけなんでね。さっきいったけれどもいったいどうして遥か遠くから自弁で百年も調を運びつづけたのか。年貢を、廃棄しろという要求がなぜでてこなかったのか。フランス革命は地代廃棄をやっているわけですからね。こういうなぜなのかという問をどんどん発することが必要だと思うんですね。そういう疑問をもって調べてみると多少はいろいろなことがわかってくるんですからね。【以下、次回】

 網野は、最後の発言のところで、再び「南朝」の問題を持ち出している。また、農民の間から「年貢を廃棄しろ」という要求が出なかったことも、再度、問題にしている。
 この対談で、網野が最も訴えたかったのは、このふたつの問題だったのではないだろうか。しかし残念ながら、対談相手の吉本も、また「司会」の川村氏も、これらの問題の重要性を、最後まで認識することはなかった。

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