◎空襲機搭乗員の処分を発表(1942・10・20)
藤本弘道著『踊らした者――大本営報道秘史』(北信書房、1946年7月)から、「四・一八空襲」に関する記述を紹介している。本日は、その四回目。
同書巻末の「雑話集」には、四つの雑話が収められているが、そのうちの(一)は、「四・一八空襲余談」である。本日以降、何回かに分けて、その全文を紹介する。
雑 話 集
(一)四・一八空襲余談
昭和十七年〔1942〕四月十八日航空母艦ホーネツトから飛翔したB55〔ママ〕十六機で我が本土を初空襲した事件は、空襲自体としては当時の我が陸軍当局が言明した如く大なるものではなかつたが、その結果が敗戦後の今日まで各方面に与へた影響は相当面白いものがある。
その中で報道関係に波汲した一・二の内幕話といつたものを此処に書いてみることにしよう。
空襲当日の狼狽の結果は東都軍司令部発表の戦果が誇大に過ぎて問題化し、改めて『大本営発表』で情況報道を収集したり、某部隊梅川少尉談、某航空部隊報告書等を新聞に掲載せしめて戦果誤報の裏付けを行つたりしたことなどに就いては、別の意味からではあつたが『航空戦報道秘話』の項に書いたから此処では改めて言はないととして、敗戦後に問題となつた搭乗者処刑に関する発表に就いて先づ書くこととする。
四月十八日の空襲に就いて、当局か、当時二・三日の間は戦果訂正その他に関して発表或ひは記事指導等を行つたが、以後一切沈黙を続けてゐたが、同年十月二十日付新聞紙上にその沈黙を破つて、本土空襲機搭乗員の処分問題を発表した。
《大日本帝国領土を空襲し我が権内に入れる敵航空機搭乗員にして暴虐非道の行為ありたる者は軍律会議に付し死又は重罰に処す。
満洲国又は我が作戦地域を空襲し我が権内に入りたる者亦同じ。》
といふ十月十九日付の防衛総司令官の『布告』と。
《去る四月十八日帝国本土を空襲し我方に捕へられたる米国機搭乗者中取調の結果人道を無視したる者は今般軍律に照し厳重処分せられたり。》
といふ簡単な『大本営陸軍報道部長談』、並に防衛総司令官布告と同様に、総司令官畑〔俊六〕大将・軍司令官梅津〔美治郎〕大将の名をもつてなされた支那派遣軍並に関東軍の布告が掲載されたのがそれであるが、結局それだけで、空襲後彼等搭乗者が何処で捕へられ、何人処刑されたか、或ひは如何なる暴虐行為をなしたるか等、その経緯に就いては一切公けにされてゐず、あとは布告と部長談に対する新聞社側の敷衍記事のみであつた。〈160~162ページ〉【以下、次回】
文中、「B55」とあるのは原文のまま。正しくは、「B25」である。