◎選良たらんとすることが生の衰弱を意味する風土
青木茂雄さんの〝追悼・小浜逸郎「彼は昔の彼ならず」〟を紹介している。本日は、その「5」を紹介する。
追悼 小浜逸郎 「彼は昔の彼ならず」 5 青木茂雄
「太宰治の場所」 (3)
「表現」とは常に何かについての表現である。何かを捨象したところに「表現」それ自体が存在するわけではない。しかし、小浜によれば、太宰のいくつかの作品において「表現」がそれ自体として分裂し拡散するという運動を始める、というのである。『道化の華』や『春の盗賊』について論じつつ小浜は次のように言う。
いや、そうではない。私自身の論旨がここでは混乱をきたしている。〈私〉はいないのではない、いるのだ。しかし、それは表現主体との幸福な重なりの中に存在するのではなく、いわばほとんど客体としてばらまかれているのである。言いかえると、表現主体はここで〈語る私〉そのものを表現の対象としてつかまえた水準に立っているのである。 (「太宰治の場所」2 『試行』53号 P.16)
小浜は吉本にならって太宰の小説群を〈話体〉の作品として位置付けている。しかし、これは作品自体における、その語り手の分裂であり、二重化である。そして、分裂により「表現」の「表現」、つまりメタ表現へと〈上昇〉していくのである。やがて〈上昇〉した〈語る私〉は、すべてを俯瞰する位置を得るのである。
太宰は、自己の執着がそのまま自己分裂へと通ずる必然を、病理の内へ投映したのではなく、まさに表現の内へこそ投映したのである。そしてその投映のしかたは、何らかの(時代、社会、個体などの)病理現象や異常現象へと還元することによって安易に普遍的な用語に捕捉されてしまうようなものでは決してない、それはそれで別様の悲劇のかたちを秘めていたにちがいないのである。 (同 P.16)
ここで小浜の言う「投映」された「表現」の領域こそが、「哲学」「文学」その他の言葉で表現されてきたメタ(つまり形而上)の領域であり世界であるのではなかろうか。想いつつ、そこまでたどり着けなかった者には「悲劇」という指定席が用意されている、という訳だ。この格好な題材として予想されるのがかのニーチェだ、という仕掛けになっている。それこそ「文学青年」の理想郷である。
在来の日本の自然主義文学には、この理想郷は縁遠いものだった。小浜は次のように言う。
なるほど近松秋江や嘉村磯多もまた、徹底して〈私〉に執着した。しかしかれらは、決して太宰のように、書きながら〈私〉から離脱し〈私〉を拡散させてゆくという運動の志向を持たなかったし、またそれを成すだけの狡猾な芸術的手腕と一種の余裕とを持ちえなかった。かれらは言わばひたすら〈私〉の方へ凝縮しようとしたにすぎない。たとえば、かれらは自己の内部にある恥ずかしいことを書く。けれども太宰は、内部の事実を恥ずかしいと感ずることを書くのである。…… こうした表出意識の特性の底には、何か自由な、宿命的に自由な、それでいて逆に宿命的に拘束されたものが感じられないだろうか。 (同 P.18)
「〈私〉から〈私〉の非存在へと下降」することが、〈私〉から離脱し〈私〉を拡散させ、そしてメタレベルへと〈上昇〉させることになるのである。しかもそれは「芸術的手腕と一種の余裕」の有無、つまり一種の文学的選良の有する〝資質〟の有無へと還元されるのである。
このような回路が、彼が深く傾倒していたに違いない吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の〈自己表出〉論の極北であったとも言えるであろう。
小浜はこの論の最後の部分で、従来のような《倫理》を媒介にしない、彼の芸術志向と現世社会との調和(または軋轢)を指摘して、それが「太宰治の場所」だったとするのであるが、それが抱かれた幻想に過ぎなかったことは太宰の早世を見れば明らかであろう。
さて、このいささか長い自身の最初の作品を小浜は次のように締めくくる。
太宰の全文学的行跡は、たとえていえば、地上にしかと繋がれた凧のようなものである。いや、かれの生存の現実性は、凧自身の飛翔力の方にではなく、地上と凧とを繋いでいる糸の張力の方にこそあった。溢れかえるほどの表現力の自在性と、「上へ上へとすすまなければならぬ誇り高き芸術家魂は、そのエネルギーを、ただもっぱら自らにむすびつけられた糸を引っ張ることにのみ濫費しつづけた。凧は決して地上に帰ろうとはしなかったし、また地上は決して凧を自由に放してやろうとはしなかった。なぜならその地上とは、かれが自ら進んで内部に措いた、そして決して撤去しようとはしなかった〈他者〉の審判の席だったからである。 (「太宰治の場所」3 『試行』54号 P.18)
的確なまとめである。しかし、小浜は末尾に次のように付け加えている。
これまでに私は太宰自身の「恍惚と不安」への敬意から〈芸術的意識〉という呼称に執してきた。しかし私たちの普遍的課題に引きつけてみれば、それは実は知性一般の活動へと翻訳しうるものであったのだ。知の所有のために上昇すること、選良たらんとすることが同時に生の衰弱をも意味するような風土から、私たち自身が自由でないとすれば…… (同 P.19)
小浜はこれ以後、「地上と凧とを繋いでいる糸」から解き放たれ、普遍的課題において「知の所有のために上昇する」ことを主たる課題とするようになるである。その、「地上と凧とを繋いでいる糸の張力」は「倫理」であり就中《生》の総体であった。
彼はやがてその後、「選良たらんとすること」に邁進するようになるのであるが、それが「同時に生の衰弱をも意味するような風土」から、自由ではなかったことは、その後の彼の経路が示している。
「地上と凧とを繋いでいる糸の張力」から解き放たれるためには、もう一つの作業が必要であった。それが、次の連載「文学の挫折 わがヨブ記註解」である。 (続く)
青木茂雄さんの〝追悼・小浜逸郎「彼は昔の彼ならず」〟は、このあとも続きます。ただし、17日現在で、「6」以降は未着です。到着次第、順次、紹介してゆく予定です。