◎しあわせの賽の山へ入るたった一つの門
『テアトロ』第111号(1950年9月)から、「歌舞伎王国」の映画シナリオ(村山知義)を紹介している。本日は、その六回目で、シーン〔63〕の後半を紹介する。
門八「――門閥がなけりやア、とんなにいい素質を持つていたつて、一生下積みで生きなけりやならない――お父つつあん、それが封建制度つてものじやないんですか? それを何とかして打ち破らなきやア、われわれ門閥のないものは――」
額之助「ばかアいえ、それをこわしたら、歌舞伎芝居つてものはなくなつちまわア――そりやあ、お前も今はつれえだろう、くやしいだろう――おれも若えころは、何度もかかけ出して飴屋にでもなんでもなつちまおうと思つたもんだ。憎らしい奴は金【カナ】支木で頭アぶつくだいて、肉にかみついてやろうと思つたもんだ――だがなあ門八、世の中アどこえ行つたつて住みいい所はありやしねえ、俺アもうそんなことは諦め切つちまつたんだ。いゝか門八、そこを早く諦めることがしあわせの賽の山へへえるたつた一つの門なんだぞ――馬鹿といわれりやアへいへい、大根といわれりや、へいへいといつていりやアいいんだ。そして貰つた小さな役になり切つて、人の目につこうがつくまいが、静かに芝居をしていると、極楽に行つたような気持になれる時があるんだ。そのちいとばかの時のために、あとはどんな目にあつても死んだつもりになつてるんだ。」
お近「本当にそうだよ、私だつて、お父つつやお前にちつとでも目をかけて貰おうと思うからこそ、大旦那の奥さんやお絹さんに一所懸命へいこらしているんだよ。」
額之助「お前はたつた一年だけど、軍隊に行つて、外の世界の空気を吸つて来たから、一そうたまらねえと思うのかも知れねえが――」
門八「軍隊はひどい所だよ、お父つあん、全くお話にも何にもなりやしない――だが、芝居の世界は軍隊より未だひどいんだ――軍隊は、どんなひどくても、或る期間のことだし、同じ階級同志の中じやア、気のおけない時間もあるんだが、この世界は全くいきをつく間もありやしない。表からも裏からもからめて〔搦め手〕からも、三重、四重に攻め立てられるんだ――これが一生続くんだ!」
額之助「まあいい、お前にもだんだんわかつてくる、へん、おれにだつてこの味はおれでなくちやア出せねえッてえ味があるんだ。槍でも鉄砲でも持つて来いッてんだ。」
門八「そうですよ、お父つあん、やつぱり長い間たたき込んだ味がありますよ。その点にかけちやア、日本一ですよ。」
額之助「ふん――どうだい母ちやん、もう店しまわねえか、一緒に帰ろう。」
お近「そうねえ、今日は早仕舞いにしようか。明日はあんた帰りの遅くなる日だろ。」
二人で片ずけにかゝる。
額之助「そうだ、中日〈ナカビ〉の明日は例の日だ。もうちつとで忘れるところだつた。桑原桑原。」
門八「例の日つて?」
額之助「それ、大旦那が帰りにお絹さんの処えしけこみなさる日よ。お伴をしなくちやならねえのさ」(O・L)
額之助のセリフにあらわれた人生観は深い。門八のセリフも、なかなか。
文中、「金支木」は、金属製の支木のことで、読みは「かなしぎ」。支木(しぎ)は演劇用語で、舞台に置く張り物(パネル)を支える木のこと。「ささえぎ」とも読む。「しあわせの賽の山」については不詳。「賽」というのは、境界の意味であろう。最後にある(O・L)は、オーバーラップ(over-lap)の略。読みは、オーエルか。