礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

文学作品は、具体的であることで生命を持つ(青木茂雄)

2023-06-16 03:12:04 | コラムと名言

◎文学作品は、具体的であることで生命を持つ(青木茂雄)

 青木茂雄さんの〝追悼・小浜逸郎「彼は昔の彼ならず」〟を紹介している。本日は、その「4」を紹介する。

 追悼 小浜逸郎  「彼は昔の彼ならず」  4     青木茂雄

 「太宰治の場所」 (2) 

 小浜逸郎が『試行』52号から掲載を始めた「太宰治の場所」という文芸評論文は、例によって若者特有の気負いに満ちた文章であり、決して読みやすいものではないが、力を入れて書いた作品であることは確かである。それは太宰治の前期から中期にかけてのいくつか作品について論じたものである。
 太宰治の20代中期から後半へかけての時期の作品で、おそらく太宰の生きたその年齢と小浜逸郎自身の同時期とを重ね合わせて読んだものと思う。
 私も太宰治は高校生のころに背伸びして読んだ。ごく初期の『晩年』(なぜ「晩年」なのだ!といぶかった)から読み始め、わからないことを書くのが「文学」かと閉口したが、『思ひで』で一息ついた。その時はそれで終わり、30歳を越ぎてから、戦前の作品を、ひととおり通して読んだ。この時は、太宰がわかったという気になり、結局東北の土の匂いの抜けない農民出身作家という位置付け(そう太宰は自認した)で了解した。とくに好きなのが『津軽』である。ラスト近くかつての「ねえや」に再開する場面、小学校の運動会で子供とたわむれる「ばあや」(かつての「ねえや」)の姿。運動場にひるがえる「万国旗」と「日の丸」。「絶望するな」という彼の自分自身への叱咤。このあたりで私の太宰治のイメージは止まっている(太宰の表看板である戦後の作品群はまだちゃんとは読んではいない。近々、坂口安吾らと併せてじっくり読む積もりである)。
 小浜逸郎の太宰論は、人生論ふうの、よくある太宰治論ではない。太宰治の前期から中期にかけてのいくつか作品(私はそれらは゛通過儀礼的に〟読み通しただけである。こういう文章群はやはりまだ習作である。太宰の中でもそれほど意味のあるものとは私には思われなかったし、また若気の至り、才能を衒うたぐいの文章は好きになれなかった。)を、奥野健男の批評文を介して内容的な批評を、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』の言語表出論を介して方法的な批評を行おうというものである。つまり小浜は私とは、まったく逆の問題意識で太宰を読んだのである。
 決して読みやすくはないこの文章を詳しく解読することはここでは必要ないし、小浜の「読み」がどれほど普遍性があるのかは、文芸批評には門外漢である私には評価するすべがない。
 ここでは、さしあたり小浜の主張の結論的な部分をいくつか提示する。

 太宰は明らかに、私小説作家と呼ばれる人たちが縋りつこうとした〈私〉への志向とは逆方向の表現の触手を伸ばしている。かれは他の人々が社会的な非存在から存在としての〈私〉を希求したのを尻目に、存在すると幻想された〈私〉から〈私〉の非存在へと下降していったのだ。そしてそれは倫理的な促しによったというよりも、むしろ自分でも始末のつかぬ表現意識の魔手にとりつかれた結果であると考えた方が正鵠を得ているように思われる。  (「太宰治の場所」2 『試行』53号 P.13)

 「〈私〉から〈私〉の非存在へと下降」しようという彼の意志や志向(嗜好)は、津軽の大地主の子弟という彼の出自や幼少期、及び青年期の体験とは無縁では決してありえない。小浜の太宰論のひとつの下敷きになっていると思われる「太宰治論」の中で奥野健男は次のように書いている。

 太宰治の文学を貫くものは、強烈な下降への志向である。たえず自己を破壊し、自己の欠如感覚を決してごまかさず、かえって深化させて行くそうすることにより既成の社会に、文学に、一切の現実に、反逆しようとした。この下降志向は、自己の欠如感覚を、―不完全なものから完全なものへ、劣者から優者へ、混乱から調和へ、人間から神へと、―自己完成、あるいは立身出世などにより埋めようとする、長い支配秩序により馴致され形成された人間の上昇志向の定型に対する、反逆の倫理である。 (奥野健男「太宰治論」『太宰治研究』筑摩書房1956年、P.29)

 しかし、太宰の場合さらに彼自身の資質がつけ加わる。

 問題はむしろナルシシズムと分裂性的性格のまじりあった自己意識からの下降にある。太宰の性格を作品から検討してみると、「自己独自の世界の形成」―「自閉性」と、「外界との生ける接触感の欠乏」―「疎外感覚」の二つが大きな特徴として浮かび上がってくる。これは典型的な分裂的性格の特徴である。 (同 P.30)

 奥野によれば、通常は「学問、芸術、事業などの完成とか、宗教的聖化」などに没入することによって「自我高揚、自我充足」によって得られる高揚感によって昇華されるべきこの分裂的性格が、太宰には最後まで足かせになった。

 だが太宰治はこのような行き方を拒否した。彼にそれをさせたものは、自己充足の快感に対する嫌悪と「自己は他のためにある」という倫理感によってである。 (同  P.30)

 奥野はそこから太宰治を訪れる悲劇を結論づけるのであるが、それはそれで説得性のある図式である。小浜はこのような図式から、前提となっている太宰の出自、時代背景、病理癖、 倫理感等をすべて捨象し、「表現意識の魔手にとりつかれた」「下降」へと一元化するのである。
 しかし、文学作品というものは何よりも、具体的であることによって生命を持つのである。したがって、多くの作品論がその作家の出自、時代背景、病理癖、倫理感等を脳裏に浮かべながら、作品と相渉っていった結果であるのは当然である。それらを捨象することなどおよそ不可能なのである。「表現意識の魔手」などというものはそういう作家の《生》の結果なのではなかろうか。具体的な《生》を捨象して「表現」それ自体が果たしてありうるのであろうか? (続く)

*このブログの人気記事 2023・6・16(9位になぜか三浦つとむ、10位になぜか山本有三)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする