◎こっちやいつも捕手か諸士で(松島額之助)
『テアトロ』第111号(1950年9月)から、「歌舞伎王国」の映画シナリオ(村山知義)を紹介している。本日は、その五回目で、シーン〔63〕の前半を紹介する。
松島額之助とその息子・門八が、渋谷の呑み屋に入ってゆく。額之助の妻・お近が、この呑み屋をやっているという設定である。
〔63〕 渋谷の呑み屋「縄のれん」
額之助と門八がはいつてくる。
お近「ああら、あんた来たの?」
額之助「はんじようしてるらしいな。」
お近「だめよ、さつぱり――やつぱり、おばあさんじやアね。」
額之肋「そうかねえ、おれなんか、おばあさんの方が気が楽でいいがね。」
門八「お父つあん、一ぱい呑むんだつてさ。」
お近「ほんと? およしなさいよ。」
額之助「だつて今月になつて始めてだぜ。」
お近「そりやそうね、じや――」
一ぱいついで出す。
額之助「その代り煙草を十本倹約すりやいいさ。」
お近「よしなさいよ、そんなケチなこと、その代り一ぱいきりですよ。」
額之助「よしよし――ううむ、うめえ、門八、お前も一ぺえのめ。」
門八「じやぼくは金払つてのむよ、へい四十円。」
お近(ふざけて)「毎度ありがとうござい。アラ三十分程前に笑三郎さんが来たよ。」
門八「へ! 官服で!」
お近「やめたんだつてさ警官を、矛盾を感じるんだつてさ。」一ぱいつぐ。
門八「この間もそんな事いつたつけ、そうだろうな笑さんなら。」
額之助「あああ、昔に帰つたような気だ――なあ、お近、お前、台の向うにそうやつてると、何だかこう、大和屋の舞台姿のようだぞ。」
お近「何をいつてるのよ、もういい気持になつちやつて――お父ちやんのお酒は安くていいわねえ。」
額之助「――おう――その南京豆、少しよこしねえ。」
お近「へい、へい。」
額之助「まあ、おれの一世も、こうやつて毎日好きな芝居がやつていられるんだから、しやわせだつたといわなくちやならねえ、なあ、お近」
お近「そうだねえ、本当に」
額之助「そりやア、ぐちを並べりやあ、いくらもあらうな。大旦那〔山下金右ヱ門〕にくらべりや、おれの方が三つ上だ。大旦那のお相手で踊りも長唄も義太夫も一しよに稽古に行つたが、みんなおれの方が筋が良かつた、――大旦那は若い時、いつも大根、大根といわれてなすつた。――だが何ていつたつて、向うは三升屋の御曹子、こつちたア身分が天と地ほどちがわア――いつもいい役がついてるうちやア、段々にうまくなつてくる――こつちやいつも捕手〈トリテ〉か諸士で――おらあ四十九年の間、毎日毎日大旦那が舞台でやつていることをこの目で見てたんだ――ああ、下手だなア、おれならこうやるんだがなあ――と思つてヂリヂリしながら見ていたんだ――それが十年、二十年と続くうちに、だんだん巧くなんなすつた――自信がついて――貫禄がついて――いい芸になんなすつた。十年もたつて、おれやつと一ト言セリフのあるぐらいの役をもらうようになつた――そんな役では自分の芸も振るえない――ばかりか、目につくようなうまみを見せれば、却つて上の役者からねたまれてカスをくう――そのうちに――だんだん自信もなくなつて――実際、立役者〈タテヤクシャ〉のやる芸はできなくなつてしまう――」
(門八はその間に、ほとんど口をつけない自分のコツプと、空になつた父コツプとを、父に気付かれないようソッと取りかえる)【以下、次回】
酔いが回った額之助六十三歳が、自分の人生を振り返る。「しやわせだった」とは言いつつ、「自分の芸」を発揮できなかったウラミは深い。この場面も好い。実際の映画で観たかったところである。
文中、「大和屋」は、歌舞伎役者の屋号。何という役者を念頭においていたのかは不明。