◎小浜逸郎、吉本隆明の門をたたく
本年四月二〇日・二一日に、青木茂雄さんの〝追悼・小浜逸郎「彼は昔の彼ならず」〟の「1」と「2」を掲載した。数日前、その続編「3」・「4」・「5」が送られてきたので、本日以降、順次、紹介してゆきたい。
追悼 小浜逸郎 「彼は昔の彼ならず」 3 青木茂雄
「太宰治の場所」 (1)
小浜逸郎が当時世を騒がせていた「オウム真理教」事件に関して出した本『オウムと全共闘』(1995年12月草思社刊)の中で、吉本隆明について書いた文章(批判文というが、批判にはなっていないし、そもそも最初はそのように意図されてはいなかった)が吉本の逆鱗に触れて罵倒されたというこのちょっとした事件は、その筋に関心のある者の間では結構知られている(この「事件」とその後については又稿を改めたい)。その本の中で、小浜は次のように書いている。
私は物書きとしての自分の仕事のうえで、吉本隆明の思想の恩恵を大いに被ってきたし、また、私的にもたいへんにお世話になったことがある。いまでも彼の思想の最も重要な部分は、私自身がものを考えるときの核心の一つをなしているとは自身では思っている。したがって、彼を批判することは正直なところ心苦しいのであるが、しかし他方、そうであればあるほど、自分の違和感をうやむやにごまかしてしまうのはよくないということであると思う。(『オウムと全共闘』P.73)
「核心の一つをなしている」と思っている人物に対して根本的な批判などできるわけはないし、この「批判」もただの行き掛かり上のものである。それは吉本にとっても同様であろう。
ここで小浜が「たいへんにお世話になった」と書いているのは、彼が過去に苦労して書いた2つの文章が吉本の主宰する雑誌『試行』に6回にわたって掲載された(しかも巻頭言に次ぐ冒頭の文章とされたという栄誉である)こと、それのみでなく連載終了後ただちに吉本と縁の深い出版社(弓立社)から単行本として発行されたという(『太宰治の場所』1981年)、これまた栄誉に預かったのである。
当時(1970~80年代)アカデミズムというルートの外にいた、思想をめざす少数派の若者にとって、雑誌『試行』の仰ぎ見るべき崇高さは、ちょっと経験した人でないと想像がつかないであろう。私もそういった空間を一時期共有していた。私も、自分の書いた文章が『試行』に掲載され、その主宰者から評価される瞬間を夢想して甘美な思いに浸ったことがある。しかし、私の書く文章は限りなく貧弱である……。
小浜の書いた2つの文章とは、「太宰治の場所」(52号、53号、54号)「文学の挫折―わがヨブ記註解」(55号、56号、57号)、ちなみに52号が1979年6月、57号が1981年10月発行である。足掛け3年間にわたっていた。「師匠」に直接に面することの大きさ、ことに吉本の個人的な求心力の大きさは、人をコロッと参らせるものがあった(多分)。恐らく小浜においてもそうであったろう。
ちなみに、私は関東のとある地方大学の出身であるが、吉本の講演を聞きにはるばる東京にやってきたことがある。たしか1969年のことであった。新宿の紀伊国屋ホールはほぼ満員で、前列4列くらいまではことに心酔者と思われる者の一群が、吉本の一挙手一投足に反応するその雰囲気に異様なものを感じたほどだった。演題は「源実朝について」だったと思う。和歌についての話から入り、当時の歴史と人物像を浮き彫りにしながら、最終的には二重権力論へと論じ進める問題意識の展開の鮮やかさには正直驚いた。そういう話の内容もさることながら、その人となりと風貌である。着古した背広によれよれのネクタイを垂らし、どう見ても風采の上がらない風の中年男がそこに登壇していた。やや前掲姿勢で伏し目がち、「あのー」「そのー」を連発しシャイな印象(彼はその講演の中で、水木しげるの漫画『ゲゲケの鬼太郎』に登場する「ネズミ男」に自らを擬した)。そのたびに「心酔者」の一群が反応する……。
吉本をじかに見たのはその後1973年で、この時の演題は「連合赤軍事件」について。時節がら横浜の関内にある広い会場は超満員で、ステージの上にも若者の観客が多数座り込んでいた。最後は1987年の紀伊国屋ホールで、吉本、小阪修平、栗本慎一郎の鼎談。私は、勿論自分の身の程を承知していたから吉本隆明に面識し、自分の作品を見てもらおうなどという気はさらさら起こらなかったが(私はそれで良かったと思っている。第一、見てもらうほどの作品はまだ持ち合わせておらず、書くことそのものがおっくうで不得手であった)、「太宰治の場所」という原稿(当時は原稿用紙)を抱えて、吉本隆明の門をたたいたのが小浜逸郎であった。(続く)