礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ニッポンを斯く見る(UP通信社マイルズ・W・ヴォーン)

2023-06-11 01:15:45 | コラムと名言

◎ニッポンを斯く見る(UP通信社マイルズ・W・ヴォーン)

『日の出』1945年11月号の目玉記事は、UP通信社極東総支配人マイルズ・W・ヴォーン(Miles Walter Vaughn,1892-1949)に対するインタビュー記録「日本【につぽん】を斯【か】く見る」である(4~8ページ)。聞き手は、ニッポンタイムズ社編輯局総務の長谷川進一。

  『日 本 を 斯 く 見 る』
    UP極東総支配人ヴオーン氏に訊く  長 谷 川 進 一

 戦時中、日本の海外宣伝放送の中枢であつた東京の日比谷公園に近い放送会館も、マツカーサー日本占領軍司令部に接収されてからは、日本放送協会は三階にサンドウイツチのやうに挟み込まれ、六階から下まで、マ司令部の情報・教育関係活動の本拠と化した。
 東京の空爆被害地帯の真中に、とり残されてそゝり立つこの立派なビルデイングは戦時中、対空偽装のために真黒に塗りかへられ、今は玄関に米国憲兵が立哨してゐる。ピカピカに磨き上げられた入口の石畳の上を辷【すべ】るやうに後から後から米国第八軍の将校連が出て来る。街頭には、幌を立てたジープ(小型軍用自動車)が二、三台、何時でも飛び出せるやうに待機してゐる。
 一階広間の四角い石柱や壁の上には、横文字で細々〈コマゴマ〉と、いろいろな司令部の掲示が張り出されてゐる。それは戦時中の東京とは、凡【およ】そ変つたアメリカ色の濃厚な場所である。
 米軍の東京進駐以来、五十余日を経た秋の或る朝、私はUP通信社極東総支配人マイルス・ヴイー・ヴオーン氏と会見するために、この建物を訪れた。ヴオーン氏は、関東大震災後、ニユーヨークの本社から東京に特派され、爾来【じらい】約十年、東京を中心に、全世界に東亜ニユースを送信する元締【もとじめ】として腕をふるつた人である。
 折柄【をりから】、UP社長ヒニー・ベーリー氏が東洋訪問中であつた。ベーリー社長は東京滞在中 天皇陛下に異例の謁見を賜り、更に重慶に飛んで蒋介石主席と会見した。極東総支配人として、日本、支那、朝鮮、フイリツピン、印度‥‥各地から飛来飛往【ひらいひわう】するニユースの波の中を駆け廻る忙人【ばうじん】ヴオーン氏は、社長渡来中、とりわけ忙しいのであつたが、特に『日の出』の申し出でを入れて、旧知の筆者〔長谷川〕と会見を約したのだつた。
 私が一階左角の「報道班員室」に入ると、先づ耳を打つものは、機関銃のやうに間断なく響くタイプライターの音である。UP、AP、IMS、ルーター〔Reuters〕、その他各社から来た報道班員が、それぞれ自社の事務机に陣取つて、一秒を争つて打ち出すニユースの速報に働いてゐる。室内は、まるで目に見えぬ輪転機が動いてゐるように活動的である。
 筆者の姿を見てヴオーン氏は、
『やあ。』と、野球のグローヴのやうに、大きくて分厚な右手を差し出した。
『君の来るのを待つてゐたよ。』
 声は太くて低いが、力強い響きを持つてゐる。栄養がよくて、精力的な、五十男の頑丈な体格を、カーキー色のマリーンの制服で包んでゐる。制服の左胸の上に、「戦時報道班員」と英語で記した金色のマークが鮮かに見える。
 話題は具体的な政策問題に亘ることを避けて、成可く〈ナルベク〉見聞を主にした話や大摑【おほづか】みな話を選んだ。話が終る度に口を一文字に結ぶのが、この人の癖である。そして親指と中指を摺りあはせてパチンといふ高い音を出すことがうまい。話がはずんで来ると、両手をつき出してパチン、パチンの連発だ。
 以下は筆者との対談の要領である。【以下、次回】

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