◎デアルがヂャとなり、行キアレが行キャレとなる
『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
時間が参りましたが、まだ予定の半分あまりしか済みませんが、幸ひ要項が印刷になつてゐますから残りはそれで御覧を願ふことに致したいと思ひます。唯大筋だけを申しますと、母音音節としてはイウエオの五つが古代からあつたのでありますが、平安朝の末から室町末期にかけては、アイウの三つとなり、古代のエ、オは、ye、woとなつてゐたのであります。その中、古代の母音のエ、即ちア行のエは先づヤ行のエと同じ音になり、次にワ行のヱ及び語中語尾のヘから転じたヱと同音になつたのであります。その場合にこれらの音が、ヤ行のヱ即ちyeになつて純粋の母音のエにならなかつたのでありますが、それは何故かといふと、もし母音になるとすれば、語の中及び終りに於いて前の音節の母昔と直ぐ接触することになる。それを避ける為に純粋の母音エにならず、ヤ行のエ(ye)となつたと思はれます。オがwoになつたのも矢張り同様であらうと思ひます。語の中及び終りに於いては母音音節のオは昔からなかつた。ですからア行のオ(o)とワ行のヲ(wo)及びハ行のホから変化したヲが同じ音になつた時、純粋の母音オになるとすれば、語中語尾では前の音節の母音とすぐ接触する事になる。それ故、やはりヲ(wo)の音を保つて居る方が母音の接触を避ける為に都合が好かつたので母音オとならずにwoの音を保存してゐた。それでオとヲの区別が失はれて同一の音になつた場合に、母音の方のオにならないでヲになつたのである。さう云ふ風に考へるのであります。
所が一方平安朝に於いて語頭以外にイ、ウの音がかなり出ました。是は音便とか、其の他の音変化に依つて非常に多く出来ました。それで語頭以外に母音の音節を使はないと云ふ原則が次第にくづれて行つた訳であります。けれどもそれでは前に述べたやうな傾向が全然滅びて了つたかと云ふと必ずしもさうではないのであります。例へぱ、アウ、カウ、サウと云ふ音が後にオー、コー、ソーと云ふ風に変化しましたが、これはウと云ふ母音が前の母音の後にすぐ附いてゐる。それが為に変化を生じたものと考へられます。エウ、ケウ、セウがヨー、キヨー、シヨーになつたり、エイ、ケイ、セイがエー、ケ一、セーになつたなども同じ傾向の現れであらうと思ひます。それから「附合ふ」がツキヤウになり「絵合せ」がエヤワセになるなどは室町時代から見えてをりますが、これも母音と母音が接触する場合に起つたものであります。
室町時代まであつた、ye、woの音が今日のやうにずべてエ、オになつたのは是は江戸時代だと思ひます。この時分から母音音節は現代のやうにアイウエオの五つになり、その上語頭ばかりでなくて、それ以外の場所にも自由に用ひられる事になつたのであります。さうして昔は二つの母音が接触して現れる場合には一方がなくなつたのでありますけれども、後になつて拗音が出来てからは、母音を省かず、一方の母音を子音化して拗音にする事が起つたのであります。例へば「デアル」が「ヂヤ」となりました。もつと古い時代ならば「ダ」となつたでせう。それがヂヤとなつて、デの母音eが子音化してyとなつて残つた訳であります。「行キアレ」が「行キャレ」となりましたが、昔なら「ユカレ」となつたでせうが、「行キャレ」となつたところに時代の違ひが見られます。しかし母音の接触した場合にその母音に変化が起り易いと云ふ傾向が見られる事は同様であます。
斯う云ふ傾向は余程由来久しいものでありまして、国語の母音は語頭以外では独立した音節としてほ存立しにくいといふ性質があるのであります。此の性質は時代が下ると共に次第に失はれて行つたとは言ふものの、尚根本の傾向としては全然なくなると云ふことはなく、各時代の音変化の上に色々の形で現れてゐるのであつて、かなり根強いものがあると言つて宜いのであります。甚だ意を尽しませんでしたが、是だけにして置きます。〈167~169ページ〉
『日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)から、橋本進吉「国語の音節構造と母音の特性」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
時間が参りましたが、まだ予定の半分あまりしか済みませんが、幸ひ要項が印刷になつてゐますから残りはそれで御覧を願ふことに致したいと思ひます。唯大筋だけを申しますと、母音音節としてはイウエオの五つが古代からあつたのでありますが、平安朝の末から室町末期にかけては、アイウの三つとなり、古代のエ、オは、ye、woとなつてゐたのであります。その中、古代の母音のエ、即ちア行のエは先づヤ行のエと同じ音になり、次にワ行のヱ及び語中語尾のヘから転じたヱと同音になつたのであります。その場合にこれらの音が、ヤ行のヱ即ちyeになつて純粋の母音のエにならなかつたのでありますが、それは何故かといふと、もし母音になるとすれば、語の中及び終りに於いて前の音節の母昔と直ぐ接触することになる。それを避ける為に純粋の母音エにならず、ヤ行のエ(ye)となつたと思はれます。オがwoになつたのも矢張り同様であらうと思ひます。語の中及び終りに於いては母音音節のオは昔からなかつた。ですからア行のオ(o)とワ行のヲ(wo)及びハ行のホから変化したヲが同じ音になつた時、純粋の母音オになるとすれば、語中語尾では前の音節の母音とすぐ接触する事になる。それ故、やはりヲ(wo)の音を保つて居る方が母音の接触を避ける為に都合が好かつたので母音オとならずにwoの音を保存してゐた。それでオとヲの区別が失はれて同一の音になつた場合に、母音の方のオにならないでヲになつたのである。さう云ふ風に考へるのであります。
所が一方平安朝に於いて語頭以外にイ、ウの音がかなり出ました。是は音便とか、其の他の音変化に依つて非常に多く出来ました。それで語頭以外に母音の音節を使はないと云ふ原則が次第にくづれて行つた訳であります。けれどもそれでは前に述べたやうな傾向が全然滅びて了つたかと云ふと必ずしもさうではないのであります。例へぱ、アウ、カウ、サウと云ふ音が後にオー、コー、ソーと云ふ風に変化しましたが、これはウと云ふ母音が前の母音の後にすぐ附いてゐる。それが為に変化を生じたものと考へられます。エウ、ケウ、セウがヨー、キヨー、シヨーになつたり、エイ、ケイ、セイがエー、ケ一、セーになつたなども同じ傾向の現れであらうと思ひます。それから「附合ふ」がツキヤウになり「絵合せ」がエヤワセになるなどは室町時代から見えてをりますが、これも母音と母音が接触する場合に起つたものであります。
室町時代まであつた、ye、woの音が今日のやうにずべてエ、オになつたのは是は江戸時代だと思ひます。この時分から母音音節は現代のやうにアイウエオの五つになり、その上語頭ばかりでなくて、それ以外の場所にも自由に用ひられる事になつたのであります。さうして昔は二つの母音が接触して現れる場合には一方がなくなつたのでありますけれども、後になつて拗音が出来てからは、母音を省かず、一方の母音を子音化して拗音にする事が起つたのであります。例へば「デアル」が「ヂヤ」となりました。もつと古い時代ならば「ダ」となつたでせう。それがヂヤとなつて、デの母音eが子音化してyとなつて残つた訳であります。「行キアレ」が「行キャレ」となりましたが、昔なら「ユカレ」となつたでせうが、「行キャレ」となつたところに時代の違ひが見られます。しかし母音の接触した場合にその母音に変化が起り易いと云ふ傾向が見られる事は同様であます。
斯う云ふ傾向は余程由来久しいものでありまして、国語の母音は語頭以外では独立した音節としてほ存立しにくいといふ性質があるのであります。此の性質は時代が下ると共に次第に失はれて行つたとは言ふものの、尚根本の傾向としては全然なくなると云ふことはなく、各時代の音変化の上に色々の形で現れてゐるのであつて、かなり根強いものがあると言つて宜いのであります。甚だ意を尽しませんでしたが、是だけにして置きます。〈167~169ページ〉
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