◎紫式部は理論的かつ創作的天才(島津久基)
『昭和十六年十一月 日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)の紹介を続ける。
同報告書の末尾には、「公開講演会」における講演の紹介が載っている。順に、五十嵐力(いがらし・ちから)の「文学の味ひ方いろいろ」、島津久基(しまづ・ひさもと)の「紫式部の芸術を憶ふ」、吉沢義則(よしざわ・よしのり)の「古人を尊重せよ」の三本である。
今回は、このうち、島津久基の「紫式部の芸術を憶ふ」を紹介してみたい。ただし、全文の紹介は断念し、最初の部分と最後の部分を紹介することにしたい。
紫 式 部 の 芸 術 を 憶 ふ
文学博士 島 津 久 基
忝くも〈カタジケナクモ〉順徳上皇の御記〈ギョキ〉に、
源氏物語は不可説のものなり、更に俗人の所為に非ず、紫式部之を書く、誠に諸道諸芸皆此の一篇に縮る。不可説、未曽有なり。
〔源氏物語不可説物也。更非俗人之所為。紫式部書之。諸道諸芸皆縮此一篇。不可説未曽有也。(中略)〕
又其の下の方に、
人間の所為に非ず、不可説の事なり。
〔非人間所為。不可説事也云々。〕
斯様に〈カヨウニ〉仰せられてあります。不可説と申しますと、よい意味にも、悪い意味にも使はれて居りますが、上皇の御言葉から拝察致しますと、人間の所為ではない、説くべからざるものであると仰せられてあるのでありますから、批評を絶した神品であると宣はせ〈ノタマワセ〉られてあると畏れ〈オソレ〉ながら拝察し奉るのであります。紫式部は定めて地下に感泣致して居ることであらうと私は存ずるのであります。
今や源氏物語が宇宙最初の大小説として世界の文芸史上に文化日本の誇らしい業績を輝かして居りまする事実についての世界的の認識も着々と拡大しつゝあるやうに存じます。近くは盟邦イタリアの先の大使アウリツチ氏が夕顔巻の翻訳を帰国の手土産にされたと云ふ報道が新聞紙を賑はしたのも耳新しいことであります。又中華民国の碩学、さうして先頃来朝されました周作人〈シュウサクジン〉・銭稲孫〈セン・トウソン〉の諸大家が此の日本の古典文学の輪講を試みて、偉大なる日本の作者に尊崇の念を捧げられつゝあると云ふことも親しく我々の聴き得た所であります。
順徳上皇の御賞美ばかりでごさいませぬ。皆さん御存じの通り「大和唐土〈モロコシ〉古へ〈イニシエ〉今ゆく先にもたぐふべき書〈フミ〉はあらじとぞ覚ゆる」と申されたのは「玉の小櫛〈タマノオグシ〉」の鈴屋〈スズノヤ〉の大人〈ウシ〉でありました。又「唐土にさへ比べ挙ぐべきはいと稀なるべし」とたゝへたのは「ぬば玉の巻」の上田秋成であります。支那にさへ比べ物のないものである。源氏物語は比ひ〈タグイ〉なき上手の筆である。斯様にあの毒舌家の秋成をしてすら言はせて居るのであります。事改めてこゝで源氏物語の説明を諄々〈クドクド〉しくは申しませぬ。又後世の日本の文芸に与へました感化は如何に深く、如何に大きいか、それも詳しく述べたてるには及ぶまいと存じます。中世の物語は申す迄もなく、軍記物も、和歌も、謡曲も亦近世の西鶴も、近松も、秋成も、芭蕉すらも、又明治の尾崎紅葉、樋口一葉に至る迄皆それぞれ其の流れを汲んで居るのであります。近松の如きは浄瑠璃の死んだ人形に息――魂を入れると云ふ其の神技の骨法を源氏物語から学び得たと言はれて居ります。はつきり源氏物語とは書いてはありませぬけれども、近松が自分の作品の中に矢張りその末摘花〈スエツムハナ〉巻の問題の一節を使つて居りますから、其の言葉が偽りでないと云ふことが想像され得るのであります。
誠に源氏物語の作者は多才な人であつたと私は考へます。桐壺〈キリツボ〉巻の抒情詩篇が書けて、さうして又帚木〈ハハキギ〉の巻に於ける品定めの評論的小説も書ける人である。夕顔の巻の傑れた妖怪描写の筆を持つて居て、且つ又末摘花のやうなユーモア小説も書ける人である。文芸理論をしかと意識的に把握して居て、さうしてそれを事実の上の創作の世界に於いて示し得て居る驚くべき天才であると申して宜いものと思ひます。理論家と申すものは兎角〈トカク〉創作は下手でありますが、紫式部の場合は言挙げせぬ、日本の国の中に於いて理論もしつかりと摑んでゐて、その上にそれを作品の上に具現して居る、日本的な、驚くべき理論的且つ創作的天才であると思ふのであります。まことに見渡しまして全世界の各国で此の時代に、源氏物語の書かれました時代に、否其の後幾百年もの間にも、源氏に肩を竝べるやうなものを作り出した国があるか、民族があるか、斯う考へましただけでも私共のは躍るのであります。世を挙げて男子の文人達が漢詩、漢文に力を競うたあの時勢に、彼等に負けない漢才を持つて居る上に、男の人達と肩を竝べ得るやうな漢学の才を持つて居る上に、更にやまと言葉を以て、仮名を用ひてやまと文を綴つて、即ち国語、国字を以て国文の創作を敢行して而も其の完璧を為し遂げた其の自覚と信念と力行とは、流石に大和心、大和魂といふことばを意識して用ひて居た当代女流才媛の功勲であります。況んや其の成果が世界各国の文芸をしりへに瞠若〈ドウジャク〉たらしめる旗じるしを、世界のどの民族よりも真先に勇ましく高く掲げ得たに於いてをやであります。其の紫式部は嬉しくも我等日本人の先輩であり、祖先であつたのであります。
夕顔の巻のあの驚くべき巧まざる巧み、自然の骨法を得た妖怪描写だけでも、私は世界最初の文芸選手としての日本の栄誉を紫式部は贏ち〈カチ〉得て居るものと存じます。剪燈新話〈セントウシンワ〉の成りましたのは明の時代、我が国では吉野朝廷で、それよりも源氏の成つたのは約四百年も早いのであります。ドイツの妖怪詩人と呼ばれるホフマンは十八世紀から十九世紀の頃の人でありました。又アメリカの怪奇作家エドガア・アラン・ポーは御承知の通り十九世紀の人である。紫式部はそれらの人よりも九百年以前の人であります。我が日本の怪談小説として有名な雨月物語も源氏の夕顔の巻が書かれてから七百五十年後に出来たのであります。其の雨月の刊行されました安永五年〔1776〕と云ふ年がホフマンの生れた年であります。斯う考へますとまるでどうも夢のやうな不思議な心持に私は捉はれるのであります。今日は専門の学者の方々も沢山おいでになります代りに、一般の方々や若い生徒の方々も多数居られるやうに見受けますから、最もわかり易いお話を致します為に、例へば作品の独創的な面白い構想と云ふ点で、外国文芸だけに優先権を与へて置けないと云ふことの手近な例を一つ、二つ申上げて見たいと考へるのであります。これなら比較の材料として一番手つとり早いだらうと思ひます。〈294~297ページ〉
以上が、講演「紫式部の芸術を憶ふ」の冒頭部分である。このあとの約10ページ分を割愛し、明日は、講演の最後の部分を紹介する。
『昭和十六年十一月 日本諸学振興委員会研究報告 第十二篇(国語国文学)』(教学局、1942年1月)の紹介を続ける。
同報告書の末尾には、「公開講演会」における講演の紹介が載っている。順に、五十嵐力(いがらし・ちから)の「文学の味ひ方いろいろ」、島津久基(しまづ・ひさもと)の「紫式部の芸術を憶ふ」、吉沢義則(よしざわ・よしのり)の「古人を尊重せよ」の三本である。
今回は、このうち、島津久基の「紫式部の芸術を憶ふ」を紹介してみたい。ただし、全文の紹介は断念し、最初の部分と最後の部分を紹介することにしたい。
紫 式 部 の 芸 術 を 憶 ふ
文学博士 島 津 久 基
忝くも〈カタジケナクモ〉順徳上皇の御記〈ギョキ〉に、
源氏物語は不可説のものなり、更に俗人の所為に非ず、紫式部之を書く、誠に諸道諸芸皆此の一篇に縮る。不可説、未曽有なり。
〔源氏物語不可説物也。更非俗人之所為。紫式部書之。諸道諸芸皆縮此一篇。不可説未曽有也。(中略)〕
又其の下の方に、
人間の所為に非ず、不可説の事なり。
〔非人間所為。不可説事也云々。〕
斯様に〈カヨウニ〉仰せられてあります。不可説と申しますと、よい意味にも、悪い意味にも使はれて居りますが、上皇の御言葉から拝察致しますと、人間の所為ではない、説くべからざるものであると仰せられてあるのでありますから、批評を絶した神品であると宣はせ〈ノタマワセ〉られてあると畏れ〈オソレ〉ながら拝察し奉るのであります。紫式部は定めて地下に感泣致して居ることであらうと私は存ずるのであります。
今や源氏物語が宇宙最初の大小説として世界の文芸史上に文化日本の誇らしい業績を輝かして居りまする事実についての世界的の認識も着々と拡大しつゝあるやうに存じます。近くは盟邦イタリアの先の大使アウリツチ氏が夕顔巻の翻訳を帰国の手土産にされたと云ふ報道が新聞紙を賑はしたのも耳新しいことであります。又中華民国の碩学、さうして先頃来朝されました周作人〈シュウサクジン〉・銭稲孫〈セン・トウソン〉の諸大家が此の日本の古典文学の輪講を試みて、偉大なる日本の作者に尊崇の念を捧げられつゝあると云ふことも親しく我々の聴き得た所であります。
順徳上皇の御賞美ばかりでごさいませぬ。皆さん御存じの通り「大和唐土〈モロコシ〉古へ〈イニシエ〉今ゆく先にもたぐふべき書〈フミ〉はあらじとぞ覚ゆる」と申されたのは「玉の小櫛〈タマノオグシ〉」の鈴屋〈スズノヤ〉の大人〈ウシ〉でありました。又「唐土にさへ比べ挙ぐべきはいと稀なるべし」とたゝへたのは「ぬば玉の巻」の上田秋成であります。支那にさへ比べ物のないものである。源氏物語は比ひ〈タグイ〉なき上手の筆である。斯様にあの毒舌家の秋成をしてすら言はせて居るのであります。事改めてこゝで源氏物語の説明を諄々〈クドクド〉しくは申しませぬ。又後世の日本の文芸に与へました感化は如何に深く、如何に大きいか、それも詳しく述べたてるには及ぶまいと存じます。中世の物語は申す迄もなく、軍記物も、和歌も、謡曲も亦近世の西鶴も、近松も、秋成も、芭蕉すらも、又明治の尾崎紅葉、樋口一葉に至る迄皆それぞれ其の流れを汲んで居るのであります。近松の如きは浄瑠璃の死んだ人形に息――魂を入れると云ふ其の神技の骨法を源氏物語から学び得たと言はれて居ります。はつきり源氏物語とは書いてはありませぬけれども、近松が自分の作品の中に矢張りその末摘花〈スエツムハナ〉巻の問題の一節を使つて居りますから、其の言葉が偽りでないと云ふことが想像され得るのであります。
誠に源氏物語の作者は多才な人であつたと私は考へます。桐壺〈キリツボ〉巻の抒情詩篇が書けて、さうして又帚木〈ハハキギ〉の巻に於ける品定めの評論的小説も書ける人である。夕顔の巻の傑れた妖怪描写の筆を持つて居て、且つ又末摘花のやうなユーモア小説も書ける人である。文芸理論をしかと意識的に把握して居て、さうしてそれを事実の上の創作の世界に於いて示し得て居る驚くべき天才であると申して宜いものと思ひます。理論家と申すものは兎角〈トカク〉創作は下手でありますが、紫式部の場合は言挙げせぬ、日本の国の中に於いて理論もしつかりと摑んでゐて、その上にそれを作品の上に具現して居る、日本的な、驚くべき理論的且つ創作的天才であると思ふのであります。まことに見渡しまして全世界の各国で此の時代に、源氏物語の書かれました時代に、否其の後幾百年もの間にも、源氏に肩を竝べるやうなものを作り出した国があるか、民族があるか、斯う考へましただけでも私共のは躍るのであります。世を挙げて男子の文人達が漢詩、漢文に力を競うたあの時勢に、彼等に負けない漢才を持つて居る上に、男の人達と肩を竝べ得るやうな漢学の才を持つて居る上に、更にやまと言葉を以て、仮名を用ひてやまと文を綴つて、即ち国語、国字を以て国文の創作を敢行して而も其の完璧を為し遂げた其の自覚と信念と力行とは、流石に大和心、大和魂といふことばを意識して用ひて居た当代女流才媛の功勲であります。況んや其の成果が世界各国の文芸をしりへに瞠若〈ドウジャク〉たらしめる旗じるしを、世界のどの民族よりも真先に勇ましく高く掲げ得たに於いてをやであります。其の紫式部は嬉しくも我等日本人の先輩であり、祖先であつたのであります。
夕顔の巻のあの驚くべき巧まざる巧み、自然の骨法を得た妖怪描写だけでも、私は世界最初の文芸選手としての日本の栄誉を紫式部は贏ち〈カチ〉得て居るものと存じます。剪燈新話〈セントウシンワ〉の成りましたのは明の時代、我が国では吉野朝廷で、それよりも源氏の成つたのは約四百年も早いのであります。ドイツの妖怪詩人と呼ばれるホフマンは十八世紀から十九世紀の頃の人でありました。又アメリカの怪奇作家エドガア・アラン・ポーは御承知の通り十九世紀の人である。紫式部はそれらの人よりも九百年以前の人であります。我が日本の怪談小説として有名な雨月物語も源氏の夕顔の巻が書かれてから七百五十年後に出来たのであります。其の雨月の刊行されました安永五年〔1776〕と云ふ年がホフマンの生れた年であります。斯う考へますとまるでどうも夢のやうな不思議な心持に私は捉はれるのであります。今日は専門の学者の方々も沢山おいでになります代りに、一般の方々や若い生徒の方々も多数居られるやうに見受けますから、最もわかり易いお話を致します為に、例へば作品の独創的な面白い構想と云ふ点で、外国文芸だけに優先権を与へて置けないと云ふことの手近な例を一つ、二つ申上げて見たいと考へるのであります。これなら比較の材料として一番手つとり早いだらうと思ひます。〈294~297ページ〉
以上が、講演「紫式部の芸術を憶ふ」の冒頭部分である。このあとの約10ページ分を割愛し、明日は、講演の最後の部分を紹介する。
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