礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

気温が低かったが、エンジンは一度でかかった

2021-05-26 01:12:45 | コラムと名言

◎気温が低かったが、エンジンは一度でかかった

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その七回目。本日、紹介するのは、連載第四回(第三巻第四号、一九五三年四月)の前半。

=国産乗用車=
 東日本一周ドライブから ⑷
  弘前から青森・十和田・三本木・盛岡・仙台・山形へ  宮 本 晃 男

   津軽富士と美人にみとれながら
 弘前は岩木川流域の津軽平野の中心にあり、西に岩木山、東に八甲田山を望み、雪国だけに道は悪いが、最近は手入れがややすすみ、大分よくなってきているというのが地方の自動車人の意見であった。
 この地域は、雪どけの季節には特に道路が壊れるらしい。
 朝〔10月17日〕8時40分旅館を出発、弘前トヨタの工場で点検手入れの後、約1時間して出発。
 川部、浪岡、青森と、57キロであるが約2時間の行程であった。新城を過ぎると東北に陸奥湾をへだてて、下北半島の朝比奈岳や恐山が美しくそびえている。
 弘前も青森の〔ママ〕空襲の洗礼を受けた街だけに、街路は広く整然と改良され、明るい街となっており、なかなかの活況にさすが青森港をひかえた港町にふさわしい感じである。
 市街地を一巡、各学校及び青森トヨタを訪門、小額の後、八甲田山麓を登り、すが湯〔酸ヶ湯〕温泉に一泊した。
 途中は急坂の連続であるが、はるか見下る〔ママ〕陸奥湾の風光と、八甲田山のゆるやかな山のすそはまことに美しい。十和田湖観賞の旅客を運ぶ国鉄バスと民営バスが、シュシューッと勇ましく登ってくる。
 箱根とちがって国立公園ではありながら道はせまく砂利は荒く、わだちは深く、小型四輪ではとても上れない。乗用車はフォードやトヨペットが上っていた。美しいバスガールが熱心にアナウンスしている。
 橋本記者の上手な運転でエンジンの調子も上乗、3時間余ですが湯温泉についた。
 この硫黄泉は、昔この八甲田山に住む鹿がけがをするとこの自然の温泉に足をふみ入れて傷を直す様子を猟人が見て、この温泉が始められたとのことで、昔は鹿の湯といったそうだ。なるほどと感心するほど入浴してみて良い湯だと思った。
 温泉宿は大きいが一軒よりなく、昔の陸軍の兵営のような二階建であるが、女中さんはまじめな人たちで、翌日の宇樽部〈ウタルベ〉とちがってまことに純朴で深切なのに感心した。
 旅館の設備も大切だろうが、やはりそれ以上に大切なのは従業員の心づくしだと思った。
 今日からはいよいよ南下のコースで一歩一歩東京が近くなると思うと子供のようにうれしかった。
 山々もみじが美しくやがて夜も暮れ、東京トヨタからはるばる激励に見えたトヨタの森さんと3人で久し振りで盃を傾けた。

   十和田の絶景にほれた桂月
 翌朝〔10月18日〕9時20分すが湯温泉を出発、急坂を登って蔦〈ツタ〉温泉に出だ。途中急坂を登り降りする多数の国営バス、民営バスの運転者の労苦には頭が下る思いがした。
 大町桂月は十和田湖畔の自然の美しさを恋人としついに居を蔦温泉に移し、ついにこの景勝の地に後世を終えた人である。
 奥入瀬〈オイラセ〉の溪流は紅葉し、その燃えるような美しさは例えようもない。
 すが湯から、蔦温泉まではわずか16キロであるが約1時間を要する。
 焼山〈ヤケヤマ〉から1時間余で十和田湖畔に出た。道巾はせまく一車線半である。
 紅葉にはえる山の木々と紺碧に濃い十和田湖の水の色の対照は全くすばらしい。
 休屋の湖畔を逍遙し、車をもどして宇樽部の東湖館に泊った。湖畔には十和田の観勝に集る人々がにぎわい、多数の国産新型バスがならんで帰りの人を待っていた。
 乗合自動享の便がなかったなら、十和田景勝も知らずに終える人も多いことだろうと思った。
 喜々として湖畔にたわむれる人々を見ても自動車のありがた味をしみじみ感じた。
 夜盛岡及び、三本木から電話があり、明日〔10月19日〕午後3時までに盛岡に到着してほしいとのことで、翌早朝6時半出発と決めた。
 翌朝は気温が低く朝もやがたれこめて、始動を心配したが、トヨペットのエンジンは一度で気よくかかった。
 しばらく煖気の上出発した。
 焼山から右へ三本木に向うと、右側の川ぞいに美しいダムがある。
 まるで絵はがきに見るスイスかドイツのライン河の景色のようでまことに美しい。

 文中、「三本木」とは、青森県上北郡三本木町。三本木町は、一九五五年(昭和三〇)に三本木市となり、さらに一九五六年(昭和三一)に十和田市と改称された。
 また、奥入瀬川沿いの「美しいダム」というのは、たぶん立石ダムのことであろう。

*このブログの人気記事 2021・5・26(10位になぜか西部邁氏)

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米代川に飛び込むところを急ブレーキで事なきをえた

2021-05-25 02:00:04 | コラムと名言

◎米代川に飛び込むところを急ブレーキで事なきをえた

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その六回目。本日、紹介するのは、連載第三回(第三巻第三号、一九五三年三月)の後半。

   トヨペット貨車積み
 新発田から鶴岡間は、鼠ガ関〈ネズミガセキ〉(念珠ガ関ともいう)天下の難所は、国道のトンネルが欠壊し、全然不通であり、他に道がないので、ここでは貨物列車を待ち、切返しを度々行ってトヨペットを貨車積みし、夕刻〔10月14日〕鶴岡に着いた。
 自走できないないのがくやしいので、貨車の上のトヨペットの座席に橋本記者と腰かけ、汽車の煙と蒸気にむせながら沢山のトンネルをくぐった。タオルでほほかむりし、まっくろになりながら日本海に打寄せる荒波と岩と水と山との、奇異な景色にみとれた。
 車にはどめをかい、太い荒づなでぎゅうぎゅういわいたが、駅に着くと突放しや、入替えで衝突のような衝撃をくりかえされるのでなるほどと二人共感服した。手でブレーキをかけたくらいでは、たちまち自動車がずれ落ちるし、こわれてしまう。自動車に乗ったまま貨物列車にゆられたのはこれがはじめてだった。
 トヨタジープならこんなまねをしないですんだだろうなど話し合ったが、海の際は崖と荒波で、やはりトンネルがなければ、こうするより方法がないことがよくわかった。鶴岡市の大歓迎と、映画会を盛会裡に終えて夕刻鶴岡ホテルに一泊した。

   鳥海山を右に見て庄内平野を走る
 鶴岡――酒田間は道がよい。酒田、秋田間の県境には有耶無耶〈ウヤムヤ〉の関所跡があり、この近辺は目下道路工事中でまたとない悪路が続き、運転には寿命の縮む思いがした。
 ちょうど木曾路で、溝に落ちたトラックをよけながら、断崖絶壁との間を、5センチほどを余してすれちがったときのような、はらはらした気持ちだった。
 秋田市公会堂前で市民や、小・中学生の大歓迎を受け、花束やレイをかけられ、秋田トヨタや朝日のサイドカーに先導されて、北国の都秋田の市中を行進した。

   秋田から八郎潟を左に能代へ
 秋田市に一泊〔10月15日〕、翌朝〔10月16日〕、石油の井戸のやぐらが林立する中を走って、能代〈ノシロ〉に向った。
 雨に強風が加わり、八郎潟の荒波を左に見ながら、木材の集散で急がしい、能代で休憩。美しい虹の橋をくぐりながら、米代川〈ヨネシロガワ〉にそって大館〈オオダテ〉に出た。途中鷹巣〈タカノス〉を過ぎたころ橋が流出し、本道からそれて細い道を行くと仮橋のあるところがあった。しかし通行止も迂回の標識もない。危く自動車もろとも河中に飛びこむところ急ブレーキで事なきをえた。土地の人は知っていても他国の運転者は危険千万だと思った。はたして夕刻にリンゴを満載した三輪トラックが飛びこんで同乗の娘さんもろとも重傷の記事があった。こんなことはめずらしくないのは全く困ったことである。
 大館で小憩の後弘前に向った。奥羽本線にそって登りつめるとやがて秋田と青森の県境があり、碇ケ関〈イカリガセキ〉、大鰐など温泉地を過ぎると津軽平野がひらけ、踏切をこえるといよいよ弘前市である。

   秋田美人・弘前美人
 秋田は面長の美人で名高いが、弘前の女学生も美しいと橋本記者もみとれていた。
 盛んな出迎えを受け、〔弘前〕市内を一巡〔10月16日〕、翌日〔10月17日〕はいよいよ東日本の北端の青森市に入ることになった。
 距離はすでに東京から1488km走ったことを示し、毎日150km余を走りつづけ、すでに17日目〔ママ〕である。
 毎日走りつづけであったが橋本記者も筆者も未だ疲れることもないが、さすがに住みなれた東京が恋しい。
 東京の国鉄電車、銀座の柳、ネオンや電光ニュースの光り、目をつぶるとこれらの思い出が走馬灯のようにひらめいた。
 しかし地方に来てみると何か落着いた、一歩一歩ふみしめているような力強さか感じられる。戦敗後7年、しかし日本は着々と健康を取り戻している。
 すげ笠をかぶり、もんぺをはいた丸顔の可愛い娘さんたち、にっこりほほえむ無邪気な村の男の子たちを見るたびに、頼もしいなと微笑せずにはいられない。やっぱり日本に生れてよかったと思った。(以下次号)

 このあたり、日付が明示されていない。〔 〕内の日付は、引用者によるもの。
 文中、「17日目」とあるのは、誤りであろう。弘前到着が10月16日(金)だったとすれば、同日は、出発から9日目である。
 この連載「東日本一周ドライブから」には、毎回、多くの写真が紹介されている。ただし、どれも、あまり鮮明でないのが残念である。今回、紹介した部分では、貨車に載せられたトヨペットの写真、そして弘前市内を走る「馬車バス」の写真が貴重である。

*このブログの人気記事 2021・5・25(10位の石原莞爾は久しぶり)

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すれちがう車に鶯姫が「ありがとさん」と挨拶

2021-05-24 01:43:56 | コラムと名言

◎すれちがう車に鶯姫が「ありがとさん」と挨拶

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その五回目。本日、紹介するのは、連載第三回(第三巻第三号、一九五三年三月)の前半。

=国産乗用車=
 東日本一周ドライブから ⑶
  越後路を柏崎・長岡・新潟・秋田・弘前へ……  宮 本 晃 男

   穀倉を信濃川にそって
 小さいけれども整頓して美しい柏崎市をたったのは10月13日(月曜日)の朝9時10分だった。
 昨日高田市から朝日新聞社長岡専売所のニュースカーでアナウンスしながら私と橋本記者の運転するトヨペットを先導してくれた若くて美しい鶯姫は、昨晩は長岡の自宅に汽車で埽宅し、今日はまた朝早く一番の汽車で柏崎に来て、また私たちを新潟まで先導してくれることになった。
 近頃の東京辺の女事務具のある種の人々にくらべて田舎の彼女たちのまじめな生活ぶりは私共に深い感銘と喜びとを与えた。
 手製らしい質素な洋服に包んだ彼女の身体からほとばしる美しい新潟弁は、何か、かつての勝太郎の佐渡おけさのそれのような味が感ぜられた。
 私たちの東日本一周の径路や主旨を紹介しながら、ゆきちがう他車とすれちがうとき「ありがとさん」と挨拶する彼女の声は、印象的で、今も忘れない。
 小雨のやんだ道を曾地〈ソチ〉峠にさしかかったのは10時近くであった。
 峠はなかなか嶮しく〈ケワシク〉、ずるずる、ずるずると橫辷り〈ヨコスベリ〉する危険な道を注意しながら漸く越えた。
 長生橋〈チョウセイバシ〉をわたり、大空襲からようやく復興した長岡市を一周した。
 かつての山本五十六元帥の生家があっただけに、その空襲は特に激しかったといわれるが、柏崎や新潟にくらべて気の毒である。しかし復興振りを見るとその底力には敬服しないではいられない。
 長岡で小憩の後、見付、燕、三条の町を訪問、これから国道をひた走りに走り信濃川のほとりを下り新潟市にむかった。道幅はわずか二車線のせまい道であるが、小砂利の路面はかたく走りやすい。
 川のふちで草をかむ牛や山羊と青い空にうかぶ綿のような白い雲が川面〈カワモ〉にうつって春さきのようなのどかな風景である。
 途中地平線はすべて田と接し、その中に彌彦山が蔭画を浮べている広い風景は越後平野の象徴でもあろうか。

   お米のありがたさ
 柏崎、長岡、新潟、鶴岡、酒田、秋田、これらの地方を走ってしみじみ感じたことは、田、田、田の連続であり、夜遅くまで稲の取入れに懸命な、老人、子供、女、男の貴い姿を見たときであった。
 これらの人たちのお蔭で毎日の食事が続けられることを思うと本当に一粒の米も粗末にはできない。子供のときたたみの上にこぼした飯つぶを火鉢の中に捨てかけたのを父がみつけて「きたないと思ったらこぼさないようにしろ、がまんしてたべろ、米を作っているお百姓の苦労を知らないから、そんなことができるのだ」と、しかられたことなど思いうかべながら、仕事の手を休めて私共のトヨペットを見送る人々にむかって感謝の手を振った。

   川辺の柳に暮れる新潟
 新潟市をはるか信濃川のかなたに望むころ陸運局、トヨタ、朝日支局の方々の出迎えを受け、市中行進にうつった。
 新潟市の小学校で映画と講演の会を催し、夕刻、呉清源と藤沢〔秀行〕八段の対局で名高い小甚別館に夢を結んだ。ここ二日間囀り〈サエズリ〉続けたニュースカーの彼女に花を贈って労をねぎらった。川辺の柳に暮れる新潟は、戦禍の跡もなく、いつきても美しいと思った。
 翌朝〔10月14日〕10時ガソリンを補給、新潟トヨタに挨拶し、新潟陸運局に寄った。特に新潟は道が悪いから気をつけてとの深切な助言をいただいて出発した。
 しかし、沼垂〈ヌッタリ〉から新発田〈シバタ〉間を走ってみてびっくりした。耕地整理のお蔭で道路はまっすぐであり、四車線の砂利道は手引〔ママ〕が完全に行きとどき、すばらしい快スピード (数字は忘れたことにします)で、振動はなく、全く良い乗心地で新発田についた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・5・24(8位に珍しいものが入っています)

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松本市役所前で萱野登美子嬢から花束を受けた

2021-05-23 03:44:43 | コラムと名言

◎松本市役所前で萱野登美子嬢から花束を受けた

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その四回目。本日、紹介するのは、連載第二回(第三巻第二号、一九五三年二月)の後半。

 福島〔長野県西筑摩郡福島町〕近辺は道がせまいが、何分木曾谷の側面の山をけづって道をつけてあるので、これ以上ひろげられぬところが多いので場所によっては谷の反対側の山はだをけづって道を作り、川の右と左に各々一方通行の道を作って交通の緩和を計っているところもある。
 この点東海道のような広い道幅とは異り、狭いが、地盤は硬くなかなかしっかりした道である。
 10月11日(土)は午前8時15分木曾福島をスタート、快調なエンジンにものを云わせて一気に鳥居峠を上り、正9時頂上に達した。
 おろく櫛に名高いこの峠は中学生時代修学旅行で奈良井から歩いて通った道で、懐しかった。
 頂上から奈良井の宿を見下した景色は正に天下の絶景である。
 約1時間で塩尻に入った。途中美しい蜀黍〈モロコシ〉の畠が続き昭和電工の工場が人工の美をほこっていた。
 トヨタ松本支店の小池さんがラジオカーをもって出迎えて下さった。
 12時頃松本市に入り、市役所前で多数の市民と松本市長松岡文七郎氏の歓迎の辞を受け、可愛らしい萱野登美子嬢から花束を受けた。
 30分余り城下町の市中行進の後、青木峠から姨捨山〈オバステヤマ〉の嶮を越え上田市に抜けた。
 上田から千曲川のほとり、屋代〈ヤシロ〉、長野間は木曾路と異り坦々たる道路で、心ゆくばかり秋の善光寺平と、これをかこむ信州の山々を楽しむことができる。
 上杉勢と武田勢の正々堂々の戦いの跡を偲び、やがて信濃川、犀川〈サイガワ〉を渡って長野に入った。
 朝日新聞社長野支局のサイドカーや、長野トヨタのトヨペットに迎えられて夕刻の長野の市中を走った。
 市中のラジオは、私たちの東日本一周のトヨペットが長野市に入ったとアナウンスしていた。
 10月12日(日)午前9時半長野発、10時16分若月で見送りの朝日支局員、長野トヨタの方々や陸運事務所の宮入さん達とお別れし牟礼〈ムレ〉峠に向った。
 秋の信濃路は美しく、やがて前方に花嫁を乗せたトヨペットセダンを追い越した。
 すれちがうとき橋本記者が手をあげてお目出とうございますと声をかけたのは楽しかった。
 牟礼峠を越しやがて柏原〔長野県上水内郡信濃町柏原〕につくと道の右側に俳人小林一茶がなくなられた有名な土蔵がある。
 黄色い土蔵と柿の木に二つ三つ残ったしぶ柿と青い空が目にしみた。
 〝我と来て遊べや親のない雀〟は天才小林一茶が十才のときの作であった。
 柏原から30分余で野尻湖畔についた。12時昼食をすませ秋の野尻湖は静かで人の訪 れも少く淋しい。野尻湖はやはり夏が良い。
 戦国時代の熊岡長半〔長範〕で有名な長半峠〔長範峠〕を越すと、やがて妙高、焼山〈ヤケヤマ〉を望み、山橇に赤レンガで美しい赤倉ホテルが見える。
 長野と新潟の県境を越え、関山、新井を過て高田市を通り直江津に入ったのは3時近くであった。
 日本海岸に出ると家の造りも木の色も山野の色も全く木曾路、信濃路とは異り、夏から急に冬になったような感じである。
 直江津からは日本海の海岸ぞいに柿崎を通り、三階節で名高い米山峠の嶮にかゝった。はたして米山は荒れて雨が降り、これに夕陽を受けて美しい虹の橋がかゝり、シベリヤから吹く強い風に引きちぎられたような松が、ひょうひょうとして海岸の岸ぺきに立つ姿は太平洋側では見られない荒凉とした風景である。
 それと海岸を洗う白い荒波は何か我国情を語るような思いがした。
 米山峠には明治天皇休けいの茶屋があり、これからはるか美しい佐渡の島が見える。 
 静かな海水浴場として有名な鯨波〈クジラナミ〉を通り、正6時柏崎、市役所前につき大歓迎を受け、試写会を開き夜は岩戸屋に旅の夢を結んだ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・5・23(8・10位に珍しいものが入っています)

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中仙道は中央線のレールと交叉しながら上って行く

2021-05-22 03:39:06 | コラムと名言

◎中仙道は中央線のレールと交叉しながら上って行く

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その三回目。本日、紹介するのは、連載第二回(第三巻第二号、一九五三年二月)の前半。

=国産乗用車=
 東日本一周ドライブから ⑵
  木曾路を長野・直江津・柏崎え・・    宮 本 晃 男

 名古屋ホテルで充分眠った筆者と橋本記者は、10月10日(金)10時半朝日新聞社名古屋支局を出発、朝日のニュースカーの先導音楽入りで、多数のトヨタやトヨペットとならんで名古屋市街の市中行進をさせられた。約1時間半25 k mを走りまわった。
 小学生、中学生、そして名古屋市民の歓呼をあびながら、戦災からしっかりと復興した中京を隈なく見学できることは、オープンカーでほこりと秋の陽をあびながらはづかしい思いをしてもなお、余りある勉強である。
 名古屋えは終戦前航空機や発動機の製造検査や、関係部品工場の監督に度々来たことが多かったし、終戦後も自動車関係の用件で数回来てはいたが、今度のように市内をくまなく一巡することはなかった。
 タクシー、ハイヤー、バス、三輪車、オートバイ、スクーターの整備の良否、実働状況や道路状況も良くわかってうれしかった。
 交通状態を見るとその都市産業の消長までよくうかがわれる。
 東京は連合軍関係の人々が多いせいか、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリヤなど外国製の乗用車が目立って多かったが、名古屋に来てみるとタクシーもハイヤーも、バスもトヨペットやトヨタが目立って多いのに騖いた。
 これらの車の運転士がすれちがいに手を振ってくれるのはうれしかった。
 名古屋は正に京浜、京阪神、北九州と並んで日本の重工業の中心であるとの感じが深い。
 中食後1時半支局発。トヨタ自動車労組ブラスバンド、アサヒビルの窓という窓鈴なりの 歓送を受けながらいよいよ木曾路を福島〔長野県西筑摩郡福島町〕に向うことになった。
 約1時間半で多治見に蒲いた。学生時代はるばる陶器の製作見学に来た町である。
 山々は小松の間々に陶土の白い肌が見える。
 峠にかゝる手前まで朝日やトヨタの方々が送ってきて下さった。
 こゝで橋本記者と代り、筆者が運転して、なるべく夜早く福島に着くようスピードを出して走ることとなった。
 土岐〈トキ〉、大井、中津と昔から名高い中仙道の木曾路を時速40粁余でひた走りに走った。
 中仙道は昔からの街道だけあって路面は硬くしっかりとしているが、何といっても道幅がせまく、曲りくねっていて運転は緊張を要する。
 自動車のすれちがえないようなところが多い。しかし幸に自動車の通行も少く東海道のように大型の観光バスや、外国人の大型乗用車にすれちがう機会も少い。よくしたものだと思った。
 しかし、山のように木曾の木材を積んだトラックや、重そうにセメント、砂利、砂、石材、電線など発電所やダムの建設資材を積んだ国産のトラックが走っている。実にたのもしい。中津にも、大井にも、あっと驚くような立派なダムや発電所が見える。
 あれがなかったら、たゞむだにざっと流れたであらうあの豊富な水がみんな貴重な電力となり、あの大きな中京の工業地帯の産業の原動力を作りわれわれ日本人を養ってくれているのだ。
 そしてあの大きなダムや発電所や送電塔、電線等を作った材料が、みんなこの狭い木曾 路を通ったトラック運転士と国産トラックによって運ばれたかと思うと、今トヨペットの ハンドルを握りながら、道が狭いの、路面がけわしいのとは云えないと思った。
 しかし、もっと、せめて二倍の道幅と、ほそうした路面があったら,どんなに立派な発電設備も、木材の切出しも、鉱山の開拓もできるだらうと思った。
 東京、神戸間を木曾を通過する高速度自動車道路が計画されていると聞いているが、なるほどとうなづける。
 ごみっぼいさわがしい都会地にくらべて、木曾路の落付いた木と山の景色は又格別だと思った。
 中津に近い峠から見下した木曾川と発電所ダムの風景は、自然と人工の美の極致であろう。
 中央線落合川の駅にかゝるころにはすでに陽も落ち、木曾川の川面の山波が夕陽に輝きあたりの林の緑にはえて美しい限りであった。
 しばらく行くとトラックやバスが十数台並びとても通れないと村人が注意してくれた。
 しかし何としてもあす、午前中に松本市に入らなければならないので道を急いだ。
 右は切り立ったような山で左は谷になっており、そこによけそこねたトラックが片車輪を山よりの溝に落して擱坐〈カクザ〉していた。
 人々がとても通れぬというが、よく見ると2センチくらいを残してトヨペットなら通れそうだ。
 命が要らないのか、とか用心しなっせい、などの忠告を聞きながら通過することにした。橋本記者の誘導で、セコンドギヤでゆっくりと車をゆさぶらぬようにようやく通適した。
 こんな時は中型車でしかも幌型車は左右がよく確認できて運転しやすい。
 弁天島〔静岡県浜名郡舞阪町〕の近くで工事中の道をよけてぎりぎりのせまい道を橋本記者に運転してもらったことがあったが、はらはらしたのはこれが二度目だった。
 道はその後もますますせまく、しかも、中央線のレールと交さしながら上って行く、踏切の連続である。
 暗くなってきたので特に危険だ、側に乗っている橋本記者が、地図を見ながら予告して くれる。
 踏切注意の合図を復唱しながらヘッドランプに黄色く輝く踏切標識に注意しながら走った。なるほど事故が起るはづだとうなづきながら走るところが多かった。
 寝覚ノ床〈ネザメノトコ〉に来ると長野トヨタ松本支店の丸山さんが、トヨペットのトラックに歓迎の幕を張って待って居られた。
 ばるばる鳥井峠を越えての歓迎には私共は深く感謝した。
 丸山氏の先導で7時40分木曾福島に一泊した。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・5・22(8・10位に珍しいものが入っています)

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